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「ブラジル日系美術史」発刊に寄せて=中島 宏

表紙

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 今回、サンパウロ人文科学研究所から出版された、田中慎二氏執筆、宮尾進氏監修の『ブラジル日系美術史』は、内容的にも完成度の高い非常に優れた本で、その出来栄えに強い感銘を受けました。このような本はブラジル日系社会でも珍しく、かつ貴重なものであると思われます。日系社会での美術をテーマとした、広範で本格的な内容を持つ書籍は今まで存在したことがなく、この本は誠に稀有なものと言えます。
 いわゆるブラジル日本人移民史や、日系社会における文芸界についての出版物は今までも数多く出ていますが、日系美術界に関するものは断片的なものはあっても、全体を網羅するようなものはこれまで皆無であったと言えるでしょう。「ブラジル日系美術史」は、まさにその空白を埋めるようにして刊行された、大変意義深いものです。
 ブラジル日系美術界の歴史は、これまで日系社会全体の中ではやや影が薄いという印象がありました。特に、その初期の頃はまったく地味な存在であったとも言えます。ところが実際には、近代ブラジル美術界に深く浸透して行っており、ブラジル社会でも相当な高評価を得ていて、その存在感は他の分野と比べても引けを取らず、ある面ではそれらを凌駕しているとさえ言えます。ブラジル美術界における日系人の影響や貢献度が、かなり高いものとして評価され認められているのは、決して偶然とは言えません。
 田中慎二さんが執筆され、宮尾進さんが監修された、この「ブラジル日系美術史」には、その辺りの事情が鮮明に描かれています。この本の特色は、単に日系美術界の歴史を辿るだけでなく、そこに登場する様々な日系美術家たちを通して、ブラジル美術界の歴史をも総括し、実にスケールの大きなものに仕上がっている点です。
 そういう背景があるために、日系美術史の流れもよく把握でき、ブラジル美術界で活躍して来た日系の人たちの生き方や、その方向性が理解できます。
 その過程は、第二次世界大戦という不幸な時代もあって、決して平坦なものではなかったのですが、そういうものを通り抜けて来たものが戦後になって、造形美術、芸術面で大きな花を咲かせ、実を結ぶという結果をもたらしたことに繋がったのだと言えます。
 日系美術の特徴は、それが日系社会だけに留まらず、ブラジル社会に入り込んで行くことによって大きく成長していったという点です。
 いわゆる、日系社会という枠を飛び出して、それはブラジルだけに留まらず、ヨーロッパ、アメリカ、日本など、国際的な舞台に驚異的な勢いで伸びて行ったということです。これは、ブラジル日系美術界の特質とも呼べるものでしょう。
 ブラジルという、日本とは異質な風土の中で、日本人の持つ文化性がそこに融合するような形で浸透して行ったというところに、日系美術の持つ特色があると言えます。それは、純粋な日本の作品でもなく、またブラジルだけのものでもなく、その両方が混合し融和することによって生まれて来た、独特の雰囲気がそこには存在しているという感じのものです。
 ブラジルの近代美術が、日系美術界を通じて日本文化の影響を少なからず受けているという専門家たちの評価も、あながち大げさなものではないでしょう。
 このことは、ブラジル日本人移民史の中でもちょっと特異な傾向を持つものであり、非常に興味深い点でもあると思えます。ブラジル日本人移民の歴史は農業から始まったのですが、その農業から逃れるようにして都会に出て行った青年たちは、当時、日本人移民の人たちからは異端視され、無視されるという状況にあったことは事実だったようです。
 それでもあきらめることなく、あくまで美術への夢と信念とを持ち続けることによって、何十年の歳月の後にようやく認められるという結果になったわけです。それも、単に日系社会だけでなく、広くブラジルの美術界からも認められるというレベルにまで到達したのですから、やはり、この流れは本物であったということです。
 そして、その流れは二十一世紀の今日でも絶えることなく継承されています。その辺りの事情を、この「ブラジル日系美術史」では、丁寧に説明されており、それは単に日系社会だけにとどまらず、様々な美術家たちの足跡を辿りながら、ブラジルを始め世界の美術界へ広がって行くことによって、国際的で立体的な映像が浮かび上がってくるという雰囲気に仕上がっています。
 読者としてはそこに、壮大な物語を読み進んで行くような気分を味わうことができます。芸術や美術に直接携わらない人たち、あるいは、この方面にそれほどの興味を持っていない人たちにとっても、この本はブラジルの日本人移民史という観点から見ても大変参考になると同時に、日系美術界を軸とした新たな視点からの移民史が描かれているところに、強い印象を受けるのではないかと思われます。
 その意味からもこれは、ブラジル日系社会の歴史の中に、新たな楔を打ち込んだ本として長く記憶されて行くのではないでしょうか。「ブラジル日系美術史」の出版は、その意味でも記念すべきものであり、これは、一読する価値のある、貴重な書籍であることは間違いないと言えるでしょう。新たに、ユニークな本が誕生しました。
 田中慎二さんと宮尾進さんの労作「ブラジル日系美術史」のこの度の出版、誠におめでとうございます。

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