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自伝小説=月のかけら=筑紫 橘郎=(43)

 何にも知らないのは千年太郎一人。彼女(森沢須磨子)と千年の経緯(いきさつ)を全部知り尽くして対応されているのには、また驚く千年だった。
 「だとすると、なぜなんだ?」と自問した。要は自分の力量だけが目的なのか。「『株式会社・大東建装』は実力、実績本位の企業なのか、昨今国内外で話題の企業改革の一端なのかも知れない」と勝手に思い込む千年君でした。
 木下次長は毎日、千年君と須磨子さんを車に乗せて、千葉県成田市方面とか印旛沼郡方面をさかんに案内して回った。つまり、「このあたりが君の仕事場担当地区である。この千葉市を含む四市一郡五町村の広大な全域を、君は自由に飛び回り、顧客を獲得して欲しい。ここは、まだまだ発展可能な市場だ」ということだ。
 こうして太郎は、「道成らぬ道」と知りつつ、心身共に苦闘の日々を覚悟の上で、須磨子と新所帯同棲を開始。夫婦生活に突入、出稼ぎ仕事も私生活まで、ご先方の思惑道理に万進する事と覚悟を決めた。これまでの太郎の人生で、最大の決断と成った。これもブラジル移民人生の計画性の無さ自身の優柔不断の成すところと自覚、身から出た錆と諦めざるを得なかった。
 しかし、仕事は中々思う様には進まない。期待された業績は上がらず、はたと行きづまる。ここに来て、「一念岩をも通す」の例えではないが、須磨子の夫に対する一途な思いが天に通じたのか、太郎の業績不振に反し、須磨子には玄関ドア取り換えとか、屋敷のフェンス新設など、小物ながら注文が這入り、社内のビッグニュースになった。須磨子の誉れである。
 この時点で会社上層部から、太郎に不信感さえ囁かれ始めていた。だが、専務殿から、「千年君には営業マンとしての基本がしっかりしている。きっと芽が出るはず。しばし様子を見るべきでは無いか」との強い発言が出た。太郎君は〃鶴の一声〃で難を逃れた。正にその数日後、珍しく営業課会議室に社長が出席した。
 これは何かあるぞ、と社員は勘ぐっていた。ざわめいている。すると営業部長殿が皆を静止、「千年君、こちらに来て下さい」と呼び出された。
 皆来るべき時が来た、と感じた。千年は解雇だと誰もが感じた。専務殿がすっくと立ち上がり、開口一番、「千年君お目で出当う。本日は皆さんに私が信じた営業マンの基本を貫いた千年君が、今年度社内最大の大型業務契約を成し遂げ、ここに社長の同席を仰ぎ、これより皆さんにも営業部長が発表します。私が信じた通り、営業マンとしての基本を確実に貫き、会社に大貢献してくれました。千年太郎君、有難う。社長どぅぞ」
「千年さん、良かったね。おめでとう」と社長自から手を伸ばし握手を求めた。
 営業マン一同、全員起立で一斉に大拍手が送られた。そこへ事務員が、真白き長い封筒が立っているお盆を、やおら目上に捧げ、専務殿に渡した。
 それを専務が受け取り、千年君の前に。
「千年君、おめでとう。これは、社からの約束の謝礼金だ。月々の給与とは関係ない。これは社からの気持ちの賞与です。受け取ってください」
 社員一同、これには盛大な拍手が鳴り響いた。千年君は全員に感謝の礼に頭を下げ続けた。こうして千年君の営業マンとしての感覚が目覚め、その後はトントン拍子に好成績が続き、たちまち社内のヒ―ロにのし上がって行った。そのおかげで、ブラジルの借金は難なく返済できるようになった。

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