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なにげない移民家庭こそが「日本人の臨界」

なにげない移民家庭の日常にこそ、外国理解の真相がある(岡本正三さんの家族、1950年、岡本さん撮影)

なにげない移民家庭の日常にこそ、外国理解の真相がある(岡本正三さんの家族、1950年、岡本さん撮影)

 「言葉」というのは不思議なもので、本人がしっかり理解していないと相手に伝わらない。以前、分かりやすい解説で有名なジャーナリスト池上彰が、こんなことを言っているのを聞いてガッテンした▼「後輩がニュース原稿を読んだのを聞いて、一カ所だけ意味がとれないところがあった。後から『あの部分はどういう意味だったの』と確認したら、本人も『やっぱり伝わっちゃいましたか。実は僕も原稿のあの部分だけ、意味が理解できていなかったんです』と告白した。やっぱり自分が理解していないままアナウンスしても、相手に伝わらないんですね」。つまり、たんに言葉として発音するのと、意味を分かって口にするのとでは雲泥の差がある▼日本の外国語大学のポ語学科を卒業した若者と話す機会が時々あるが、発音が良かったり、難しい言い回しができたりする反面、ブラジルの歴史や文化、人物、社会の仕組みを知らないのに呆れることが度々ある▼試しに、彼らに当地の新聞を訳してもらうと、単語を機械的に置き換えているだけで文脈を理解した文章になっていないことが多い。さらに日本語自体がオカシイことも多々あった。いくら大学で勉強して文法に詳しくなったところで、実際のブラジル社会を知らなければ本当の〃理解〃は不可能だ。それ以前に日本語文章能力が満足でないものに翻訳はムリだ▼同じことが「外国理解」にいえる。日本語や日本の歴史や文化を知らずして、外国のことを理解しようとしても限界がある。その人が日本を理解しているところまでしか、外国理解は進まないからだ。まずは母語である日本語で日本に関する論理的な認識能力を叩き上げることが重要だ。それがないのに、一足飛びに外国語を勉強しても、どちらも中途半端になる▼物事を理解するには順序がある。急いでいるからと、それをすっ飛ばすと「わかったつもり」にしかならない。そこでいつも思うのは、日本における「日本移民や日系人の存在の軽さ」だ▼血統や国籍、人種、文化変容というものを考える場合、日本人と外国人の中間にいるのが移民や日系人だ。日本では外国人や外国文化、移民や難民を理解しようとするとき、日系人をすっ飛ばして、いきなり外国人を理解しようとする傾向が強い▼なぜ柔道や剣道が延々と型を繰り返し練習するのか、茶道や華道が基本形を大事にするのか。そこには「筋道」があるからだ。外国理解〝道〟の先達は移民諸氏であり、彼らに耳を傾けるのが一番早い上達法だ。この問題には二世代、三世代先を見る視線と忍耐がないと、身体にしみ込んだ深い認識にならない▼移民家族こそが「日本人の臨界、限界」だと常々思う。移民の家庭においては、同じ血筋の中に外国人である子や孫がいて、国籍も違えば言葉も文化も異なる。でも「家族」の絆でつながる。その家庭環境の中で、どのように親の文化が子孫に広がり、現地文化や考え方が親に浸透していくのか。一世はどんな心理過程で現地適応していくのか、また二世はどんな葛藤を抱えるのか。そんな現地化の過程を一つ一つ解き明かし、理解する営みの先にこそ外国人理解があると思う▼日本人が理解するのに、最も身近で分かりやすい事例が日本人自身のはず。日本人が外国に適応していくプロセスを理解せずして、外国人の日本適応を肌感覚で理解できるのか。それらは鏡返しの現象だ。なのに日本には多文化共生や外国文化研究の学者はいっぱいいても、日本移民史やその移住プロセス研究者は少ない。その日系人不理解が外国人政策にも反映されている▼うがった見方をすれば日本の学者や官僚らは、途上国に住む南米日系人を下にみて「学ぶものなどない」とし、いまだに「脱亜入欧」よろしく欧米事例にこそ先進事例がある―との先入観を持っていると感じる▼〝足元〟たる日本移民の歴史を知らないのに、ドイツのトルコ移民の実態やアメリカの中南米移民政策を調べて、そこから日本への外国人移民導入のヒントを探るなど噴飯ものだ。「多文化共生」を金科玉条にしているNGOは欧米視察に行く前に、まずブラジル日系社会を体験しに来るべきだと思う。(深)

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