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道のない道=村上尚子=(21)

 この日は、みなと違う場所へ仕事に出かけた。菜園用の畑に赴いたのだ。この畑へ、ひろ子を置いて去ることにした(後で気がついたら、彼らが父母へ子供を届けてくれる)と思っていた。ごたごたした、ひろ子の品物を持ち出すのは、皆に不審を持たれる。子供は、着の身着のまま連れてきた。今、眠り込んでいる……誰も気づいていない。周りの者たちは、それぞれの位置で仕事を始めた。
 息づまるような瞬間である。白い服を着せたこの子を、黒々とした土の上にそっと寝かせた。ひろ子は目を覚まさない。何か、食べ物をじかに土の上に置いたような違和感である。
 我が子へ、私は胸の中で話しかけた。
「ひろ子! ゆるしておくれ! ほんとうにごめん。私は絶対におまえを迎えに来るき、元気でいておくれ、ああ! ひろ子……」 皆の隙を見て、そこを立ち去った。
 山城さんから毎月受け取っていた、僅かな金を貯めてある。これでブラジルへ行ける。途中、バスを拾い、ポンタポランまで行き、列車に乗った。無我夢中であった。汽車は、時間が過ぎているのに発車しない。おかしい…… まわりが何か慌しくなった。
 発車の時間を過ぎて十分は経った。その内、動き出すだろう。汽車が出てくれさえすれば、全て解決してしまう。祈る気持ちで待っていた。その時、近くにいるパラグアイ人たちが、低い声で話し合っている。
「若い女が、この汽車に逃げ込んでいるらしい。今、探しているのよ。それで発車しないのよ」
 と云っている。日本では考えられないことだ。
 列車に携わる者たちと、山城さん一家が、汽車を止めて私を探し始めたのだ。数人の者たちが、小走りに行ったり来たりして、各車両を覗いて回っている。私は観念した。
 汽車の壁に、額をつけて肩を落とした。決して泣かないはずの私の頬に、筋を引いて伝わるものがある…… この時、係員の一人が私を見つけた。その男は、私の背中を優しくさすって「オー、らららら……」と、言った。十分以上も列車を止めた、その私に対してである。
 一応、皆で山城家に連れてこられた。けれども、誰一人、私を責めない。むしろ私を大変気遣ってさえくれた。
 この晩、例によって、隣の壁の向こうから、茂夫の声がしてきた。この夜は、茂夫の方が酔っていた。外の者は聞き役にまわっていた。「どうして尚子が、オレと別れようとするんか、分からんたい!」
 大きな声で、不思議がっている。言われてみれば「ああ、そうか……」と思った。彼とは喧嘩ひとつしたこともないし、別れる理由も告げてなかった。

 山城さんは次の日、私とひろ子を両親の元へ返した。そして茂夫は、あの家を出て行ったとのことであった(どうやって、生きて行くのあろう)と、心配が胸をよぎった。まさかあの家を出るとは、思ってもみなかったので。
 今思うと、山城さんは、本当に器の大きな人であった。あの家にいた頃のある日、弟が父からの手紙を持ってきた。山城さんは、それを半分読んだらすぐに、涼しい声で、
「かあちゃん、金!」
 と、奥さんを振り返った。すると奥さんも又、躊躇なく家の奥へ入って行って、お金を持ってきた。

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