ホーム | 連載 | 2016年 | 第46回県連故郷巡り=悠久と躍動の北西パラナ | 第46回県連故郷巡り=悠久と躍動の北西パラナ=(3)=町誕生で続々とサンパウロ州から

第46回県連故郷巡り=悠久と躍動の北西パラナ=(3)=町誕生で続々とサンパウロ州から

福島完治さんと内村照子スエリさん

福島完治さんと内村照子スエリさん

 9月30日(金)午後、故郷巡り一行は現地が誇る巨大企業ザエリ(Zaeli Alimentos LTDA)の工場を見学。夜はウマラマ文化体育協会で交流会が行われ、現地からは約30人が参加した。
 町の人口は10万7千人、市制開始は1955年で、青年隊第1陣が到着する前年だ。つまり、日本人はほぼ市の歴史と共にある。北パラナ最大の都市ロンドリーナから西南西に260キロ、パラグアイまで110キロ余りの州西端地区だ。
 安立治(おさむ)ウィルソン会長(57、サンパウロ州バストス生まれ、二世)に聞くと、「戦前に入った日本人はいない。大体が55年前後にマリンガの方から移って来た人たち。元をたどれば、僕の様にサンパウロ州出身者が多いですね」とのこと。初代会長は「作本平(さくもと・たいら)」。
 『パラナ日系60年史』(1972年、パラナ文化出版社、以後『60年史』と略)によれば、最初の日本人入植者は1953年の稲村武一郎、55年の衛藤利明、山手勝治と続く。日本人会創立は1958年1月、1966年に文協に改名とある(85頁)。
 やはり移民人流は、戦前にサンパウロ州へいったん集中し、戦中に敵性国人として行動が制限された後、新憲法によって自由にもどった終戦直後に一気に周辺他州に広がっている流れだ。その頃に、幼児だった二世が、現在のパラナ州北西部の主役になっている。
 現地の福島完治さん(75、サンパウロ州グアインベーのパナイ植民地生まれ、二世)は1951年に北パラナのノーバエスペランサに移り、62年にはウマラマへ。以来ずっと住む草分けだ。同地文協は1957年頃に創立し、セントロに会館を持っていた。婦人会は62年に創立。大きな会館で75年ぐらいに建設し、2カ月前に拡張工事をしたばかり。
 「日本人は500家族いるが、会員になっているのは200家族。会活動が一番盛んだったのは70~80年代。野球場が3つ、子供と大人と計60人ぐらい選手がいたが、1995年頃に野球部はなくなった。日本語学校も2000年頃まであったが消滅した」とのこと。
 内村照子スエリ文化副理事(71、パラナ州マリアウバ生まれ、二世)によれば、年に6回も焼きそば会を実施しており、「土曜午前11時から午後1時までの間に1600食を売り切る」というからすごい。持ち帰りで、大半がブラジル人とのこと。「婦人部は5年前までは70人いたが、減っちゃった」というので今の人数を尋ねると「58人ね」とのこと。それでも十分多い。

青木つぎえさん

青木つぎえさん

 「ここで一番古い日系人」といって紹介されたのは、青年隊1期と同じ1956年に当地へ来た青木つぎえさん(86、サンパウロ州プロミッソン)だ。
 つぎえさんが生まれたのは、移民初期の1918年5月に創設された日本人集団地「上塚植民地」(通称イタコロミー植民地)で、しかも特に日本人が多かったコレゴ・アズル区出身者だ。
 再来年に入植100周年が行われ、ちょうど日本移民110周年に当たることから、ノロエステ連合日伯文化協会は皇室をお呼びする運動を繰り広げている。
 「ウマラマにはノロエステ線の人が多いのよ。夫もプロミッソン出身。同じところに住んでいたのよ」とうなずいた。町の誕生により、土地が疲弊したサンパウロ州から続々と日本人が参集してきた様子がうかがえる。(つづく、深沢正雪記者)

image_print