『百年の水流』開発前線編 第二部=南パラナ寸描=外山 脩(おさむ)=(13)

 何としてでも植民地を建設すべく、苦心を重ねながらも、結果として、時勢から外れてしまった水野龍は、何をして居たろうか。
 クリチーバの小農場で、カスカベルを焼いて粉にし、毎日呑み、70歳を越していたのに、子供を二人つくった。
 天照大神を信奉、毎朝、未明に起床、神前に灯をともして、故人となった縁者数百人の過去帳を読み上げていた。
 1932年、クリチーバの日本人は17家族と独身青年21人になっていた。小さな商いや野菜作りをしていた。その独身青年たちが、水野の処に集まる様になっていた。

遂に成らず!

 1935年、パラナ州の執政官から水野に、州有地払下げの話があった。
 この執政官は、前出のマノエル・リーバスである。
 その耳に、水野の植民地建設計画が入ったのであろう。
 水野は、齢(よわい)既に70代半ばになっていたが、早速日本へ行き、郷里の高知県から移民を導入する段取りをつけてきた。
 払い下げられた土地は、クリチーバから北西へ100㌔余、現在のポンタ・グロッサのアルボラーダという所にあった。が、広さは2、700㌶で、以前水野が取り組んだプロジェクトに比較すれば、まことに小さかった。しかし水野は気にせず、1936年、まず野田定という青年を現地へ送り込んだ。
 野田は好漢であったというが、翌年、毒蛇に噛まれ死亡した。代わって別の青年が入植、さらに水野一家ほか数家族が続いた。
 が、植民地は資金難に陥った。その調達を図るため、水野は日本に向かった。81歳で、現在の100歳以上に相当する高齢であった。しかし12月、日本が米英に開戦、資金調達も帰伯も不可となってしまった。
 戦時中、アルボラーダの植民地は衰退した。入植者は、最多時でも12家族で、それも次々と去った。1945年、水野の家族も引き揚げた。土地は州政府に返し、出聖して、コチア産組の下元健吉を頼った。下元は同県人であった。
 水野龍の植民建設は、遂に成らなかった。
 終戦後、水野は郷里の高知県に居ったが、生活に窮し、ブラジルへ戻る事を切望していた。それを知ったサンパウロの友人たちが、費用を募金して送った。
 水野が空路戻ってきたのは、1950年のことである。90歳になっていた。その時、当人はアルボラーダに行くつもりであった。が、すでに植民地は放棄したことを知らされ、家族が居ったコチアの職員用住宅に、身を寄せた。
 友人たちが、水野が住む家を心配して再び募金をした。