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道のない道=村上尚子=(50)

 そんなある日、思ってもみない人間がやってきた。あの小料理屋のばあさんである。
「あたしゃあ、あそこは辞めました。ここで私も働かせてもらえんでっしゃろか」
 まるで親戚の家にでも、やって来たような顔。いくら女っ気のない呑み屋だと言っても……
 でも一緒に働くことにした。ばあさんは、狭いカウンターの中で、昔からそこに居るような顔で、納まっている。仕事と云っても、小料理屋と大差はないのだが。

 ある日ばあさんは、その辺の布巾や雑巾を洗い上げ搾った。それを何と! あの飾り棚へずらーっと並べて干した。客としては、他に話相手もないし、目の前に大人しくぶら下がっている雑巾を、眺めている……私はばあさんと、ひと悶着起きるのを覚悟で、洗濯物をそーっと取り払った。癇癪を起こすかなと、身がかたくなったが、何も言わない。やれやれと思った時である。ばあさんは近くで飲んでいた、二人の客に当たった。
「こん人たちなあ、早よう家に帰りゃあええもんを! 近頃の若いもんは!」
 と聞こえよがしに言った。半分、自分の息子と重ねて見ているのかも知れない。
 二人は、知らん顔をして呑んでいたが、もうこの店には来ないだろう。 
 「円苔」も軌道に乗ってきた。営業しているうちに、この店はどうあるべきか、形が見えてきた。大まかに見て、客は二種類ある。ひとつは、会社の帰りに一杯、もうひとつは、この店で呑み、下拵えして、もっと高い店、女のいる所へ流れて行く。ということで、「円苔」は次のことに重きを置いた。
一、気軽に呑めるように安くする。
二、女が居ない分、話題で座をもたせる。

 ある日、思いもかけない、父が入って来た。片隅に座って、客の一人になりすましている。この時、入口に座っていた客が、酔いが回ったらしい。
「ママさん! オレのは長いぞおーっ。どうしようか」
「洗濯物でも干しときなさい!」
 とやり返した。会話を聞いた父は、後に、
「あの猥談を、さらりとかわすとは見事なもんだ」
 と感心した。まあ、あの日は運が良かった。
 大して話題を持っていない私は、その辺で人が転んでも、それをこの日の話題に、雨が降っただけでも話にと努力を続けていた。そして「円苔」の空気が盛り上がり、一人ぽつんと呑んでいた客同士が話し始め、七、八名の客がひとつになる。そんな時、私は時間を止めて額に入れたい! と思った。
 ある日のこと、満席なのに客が無理に入って来た。下の倉庫から椅子を運んできて座らせた。二列になって、カウンターを囲んでいる。その内まだ入ってくる。もう椅子もないし空間もない。すると、三列目は皆立って呑んでいる。おかしなもので、酔っぱらいというのは、「のれん」から首を突っ込んで見て、入る場所もないと、よけい入りたくなるものらしい。こんな時は、どんなに忙しくてもその一人のために表へ出て行って、お詫びを言った。

 もう一人手伝いが欲しい。茶を沸かしたり、氷を割ったり、魚を焼く者が必要となった。そんな訳で、「よっちゃん」という大人しい娘が入った。このよっちゃんへ、それとなく客がチップを置くことがあった。私はそのチップは彼女に渡さなかった。

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