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勝ち組子孫が国相手に勝訴=「父はテロリストではない」=第一審で誤認認定と慰謝料

手前が真二さん、奥が民生さん

手前が真二さん、奥が民生さん

 「父はテロリストではない。国家に間違いを認めてもらい、謝罪してほしい」――弁護士の佐藤真二さん(53、二世)、従兄弟の佐藤民生さん(たみお、54、二世)ら佐藤家の3兄弟は、父が1950年に「国民前衛隊」の一員として逮捕され、3年7カ月間も拘留された。10年ほど前から父の調書などを調べ始め、あまりに法的にいい加減な状態であったことが分かったために2011年に裁判を起こした。3件のうちの2件では敗訴したが、澄夫さんの件は昨年11月に第一審で勝訴した。

1954年にガルサ刑務所を出た時に40人が記念撮影。全員日本人で坊主頭の背広という異様な様子

1954年にガルサ刑務所を出た時に40人が記念撮影。全員日本人で坊主頭の背広という異様な様子

 「僕らは1980年頃まで、父が捕まっていたことすら知らなかった。家族で昔の写真を見ていたら、日本人男性十数人が坊主頭で並んで写っている奇妙な写真があり、その説明を父に尋ねた時に初めて刑務所に入っていたことを聞いた。2000年に『コラソンイス・スージョス』(フェルナンド・モラエス著、カンパニア・ダス・レトラス社、2000年)が刊行され、初めて勝ち負け抗争のことを知った。
 その後、ドミュメンタリー映画『闇の一日』の撮影で、奥原マリオ純監督が佐藤民生さんの父を取材した関係から、真相究明委員会の動きに関心を持ち、2011年2月1日に裁判を起こした。
 裁判は佐藤久夫、久人(ひさと)、澄夫の3人兄弟に関してのもので、3人とも故人。澄夫の息子・真二さん、久人の息子・民夫さんらが中心になって起こした。
 真二さんは「父は6カ月目に一度だけ取り調べに呼ばれたが、『勝ったか負けたか』とだけ訊かれ、『勝った』と答えたらそのまま房に戻され、それっきりだった」という。「そのまま3年7カ月も刑務所に入れられた。予防拘禁として逮捕され、公判は開かれず、当然弁護する機会も与えられなかった。つまり国家によって判決もないのに拘留自体が懲罰、ある種の拷問として使われた。正式な判決もないのに刑務所に長年入れられるのは、基本的な人権の侵害にあたる。勝ち負け抗争で留置された日本移民の大半は公判が開かれず、父と同じ状態」と意気込んだ。
 真二さんは「父は本が好きで『世界画報』を良く読んでいたが、決してファナチコ(狂信的)ではなかった。『勝った負けた』ということではなく『日本人であるかどうか』という信念の問題としてとらえていた。父が逮捕されたのは1950年12月2日。祖父はそのショックで7日に一回目の脳溢血、11日に2度目を起こして亡くなった」と述べた。
 民生さんも「うちの親類だけで14人が同じ時に捕まった。本人たちは名誉だと思っていたらしい。その間、残された祖母らが家計を支え、7人の孫を育てた。『恥なことあるもんか』という祖母の言葉を思い出します」という。
 昨年11月4日に出された佐藤澄夫さんに関する第一審判決の概要は「テロリスト認定は間違い。当時の金額にして10万レアル(その後66年間分の価値修正を加える)」というもの。
 ただし、澄夫さんの件だけで、他の2件では認められなかった。澄夫さんの件を、検察側は上訴すると見られる。


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 佐藤澄夫さんの裁判書類を見せてもらうと、1950年12月2日に逮捕されて3年7カ月も拘留されたのに、同年12月5日付で逮捕状が出されていたり、12月15日に釈放されたという書類があり、かなりムチャクチャ。しかも逮捕される3カ月ほど前に頼まれて、前衛隊の名簿に名前を載せただけなのに「テロリスト」として逮捕されたとか。容疑は1938年5月に制定された「国家反逆罪」だが、その条項自体が法律改正で1953年に無くなったにも関わらず、それ以降1年ほども拘留されていたという。国民前衛隊事件は山岸宏伯らが首班となって起こした悪名高いテロ未遂事件・詐欺事件だが、巻き込まれたのであれば可哀想な部分も…。

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