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自分史 戦争と移民=高良忠清=(13)

不吉な予感

 照屋幸栄君のお母さんは後になって、あの日に限って何か不吉な予感がして息子を皆と一緒に行かせなかったと言ったそうだ。
 それを知りながらなぜ皆を止めなかったのだと幸栄君はお母さんを責めたらしいが、お母さんはただ予感であって本当に当たるかどうかは知らなかったと答えたらしい。
 戦争からは生き残ってきた少年達も、まだあちこちに散乱した弾薬のために尊い命を失って行った不幸なお話です。
 終戦直後、多くの百姓達が野良仕事中、アメリカ軍が落とした不発弾や日本軍が畑に埋めた地雷を鍬に当て、その爆発で戦争では生き永らえた尊い命を失った。
 そこで役所は、村人たちに命じて、出てきた色々な種類の不発弾をまとめて海に捨て、死骸は一箇所に集められ、慰霊塔を建て、葬って村頭(ムラカシラ)を先頭に住民達は犠牲者達の冥福を祈った。
 戦争中、犠牲になった多くの住民や軍人の遺族の悲しみや苦しみは、終戦になってもまだ続いていたのだ。
 特に生活困難に陥り、おかあさん、ひもじい、ひもじい、と泣く子を抱え、身も心も焼け果てる思いで夫のために守った操を、金に換えるしかなすすべも無く、亡くなった夫を恨みながらも、そうやってわが子を育てた可哀想な戦争未亡人達も少なからずいたのです。
 あの頃、「戦果」という言葉を良く使っていた。戦時中は敵の艦船や飛行機を破壊する手柄をあげることだったが、終戦直後の沖縄ではアメリカ軍の物資を盗んで「戦果」を挙げた。
 ある村では、そんな戦果も上げられないような男には自分の娘を嫁にはやらん、と言っていた。激しい戦争から生き残った住民の心は生活困難で廃れ、戦果を挙げざるを得なかったのだ。
 それでも、衣食住を立て直すため、住民は一生懸命頑張って働き、次第に生活が安定するにつれて、人々も心の落ちを着き取り戻した頃には、もう誰も戦果を自慢するようなことは無くなった。
 お国のためとは云うけれど、私の小学校時代は軍国主義教育で、戦時には天皇陛下のために手柄を立て死んで帰って来いと教育された。だがいざとなれば死にたいと思う人は誰も居なかった。
 私の親戚で乳飲み子を抱えた母親が、民間軍人たちと一緒に防空壕に隠れていた。敵が間近に攻め寄せてきた時、赤子はヒモジク泣いた。すると兵隊は敵に赤子の泣き声が聞こえて攻撃されることを恐れて、母親に赤子を静かにさせるように命じた。母親がいくらお乳を膨らませても栄養不足の体からお乳は出ない。
 そこで兵隊は泣き止まない赤子を母親の腕からとりあげ、その小さな顔を水におしつけて殺した。
 同じ様な話を別の友人からも聞いた。
 大怪我をした自分の母親が、水を飲ませてくれ、水を飲ませてくれと唸っている時、近づく敵に自分達の隠れ場を知られることを恐れた兵隊に、早く水を飲ませて静かにさせろっ、と強く急かされた。子供達は水を飲ませてはならないと知りながらも、兵隊に押し付けられるまま母親に水を飲ませた。そのすぐ後、出血が止まらず上原仁徳、十一歳を頭に五人の子供を残して母親は死亡した。
 父親は戦死して帰らず、祖母が四、五人の幼い孫達の面倒を見ていたが、その後とうとう祖母も亡くなり、不運な子供達は戦災孤児として成人するまで政府の救済援護で生活せざるをえなかった。

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