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38年間住んだベネズエラを後にして=小谷孝子(画家)

児童基金館での第1回折り紙展、当時のルシンチ大統領夫人を迎え。カラカス日本人学校長や生徒児童も参加してくれた開会日の写真(1988)

児童基金館での第1回折り紙展、当時のルシンチ大統領夫人を迎え。カラカス日本人学校長や生徒児童も参加してくれた開会日の写真(1988)

 画家の小谷孝子さんは38年間もベネズエラに住んだが、不況や治安の悪化などあまりの国情の変わりように耐え切れなくなり、昨年3月に日本に永住帰国した。「第2の祖国」への惜別の思いを込めた文章が、昨年末の12月28日にサイト「ベネズエラで起きていること」(https://venezuelainjapanese.com/2016/12/31/kodani/)に投稿された。サイト管理者から許可をえて、ここに転載する。ベネズエラではこの3月30日に、最高裁が議会の立法権限の剥奪を決定するなど、事実上の独裁国家となった。ついこの間まで、そんな国とベッタリの政権が当地にはあった。同じ南米の地に住む日本人として、けっして人事ではない体験だ。(編集部)

 

 ベネズエラがどんな国か知る人は少ないだろう。ましてや今その国で何が起きているか知る人はほんの僅かだろう。

 1977年、私が行ったベネズエラは南米の中でも民主主義で政治的にも経済的にも安定し人々は生活を謳歌していた。

 豊富な自然資源や世界でも有数の石油生産国。美しい山や透き通るカリブ海、青い大空を飛び交う色とりどりの鳥や咲き誇る花々、おいしいトロピカルフルーツに新鮮な魚類、世界中の料理が楽しめるレストランがあちこちにあった。

 そして何よりすばらしいのは、人懐っこい優しい心の人たちだった。

 すっかり現地に溶け込んで38年間カラカス郊外に暮らしていた。しかし、この18年間の政治経済危機で治安が最悪になり、命の危険を感じとうとう精神的に参って今年3月帰国した。

 

カラカスデッサングループの仲間と発表したメトロ展のカタログ(1990)

カラカスデッサングループの仲間と発表したメトロ展のカタログ(1990)

▼未曾有の食料難

 

 この「南米の楽園」は石油生産収入に頼り切っていた経済体制が崩れると、国有化された生産工場は原料の輸入が出来ず製造不能に陥り、輸入品も市場から消え、未曾有の食糧難になった。

 日本の国土約4倍に住む3千万人の国民のほとんどが今、食物にも事欠くほどの極限状態に追い込まれている。赤子に与えるミルクもなくお米やパスタのとぎ汁を与え、子供は腹を空かせて今日も泣き寝入る。幼児や病人用のおしめがあると聞いて早朝から何時間も並んでも手に入るとは限らない。

 ガンや糖尿病等全ての薬、風邪薬さえ見つからず、病人や怪我人で溢れる公共病院はレントゲンや各検査器具は壊れ殆ど使用不可能でシーツやガーゼさえない。

 ごく普通の人が野良犬と共にゴミ箱を漁っているのをあちこちで見かけるし、空腹のあまり石鹸や毒のある芋類を食べて死亡した人も出た。

 

カラカス・フェリックス画廊での初個展 /El Nacional新聞記事(2006)

カラカス・フェリックス画廊での初個展 /El Nacional新聞記事(2006)

▼食料品だけで生活費が消え去った

 

 この数年間スーパーで欲しいものが殆ど見当たらず、何かおかしいと気が付いて、殆ど毎日食料を求めて、長時間並びながら見知らぬ人と将来の不安を語り慰めあった。

 必要でなくても手に入る物は何でも購入してきた。洗濯石鹸、歯磨き粉、シャンプー、油、粉ミルク、米、粉、パスタ、ソース缶詰類等ありとあらゆるものを買いだめした。

 食料品だけで生活費が消え去ったが、すべてが店の棚から姿を消した時どんなに助かったかわからない。隣近所と物々交換したり、人への支払いを米やミルクですると手を取って感謝された。

 一昔前、日本へ帰った時奮発してウォシュレットを買った。アメリカの税関でこれは何だと怪訝臭そうに聞かれ、麻薬でも隠していないかとさかんにいじくり勘繰る係員の前でぐっと我慢した。トイレット・ペーパーがないと皆が青い顔で探し回るとき、私は日本が発明したこのすばらしい器具に感謝した。

 

品川新高輪プリンスホテルの展示案内(2016)

品川新高輪プリンスホテルの展示案内(2016)

▼気が付いたら昔知っていた日本人は殆どいなくなってしまっていた

 

 たまに行く中国人の青空市場で出会う日本人も、物価の高さ、治安の悪さ、これからどうなるかと皆同じことを口にした。そしてふと気が付いたら昔知っていた日本人は殆どいなくなってしまっていた。日系人の数は1977年頃1500人と聞いていた。今は確かではないが300人ぐらい*だということだ。(*註:領事関連情報によれば、2016年10月1日時点でベネズエラに住む日本人は長期滞在者88名、永住者321名)

 

▼今まで多くのデモに参加した

 

 生きるための基本である食料品や薬が手に入らず、病気になっても医者にもかかれず、強盗や誘拐され殺されても、殺され損の国で生きて行くことはできない。ましてや人間としての人権を拒否され平和と自由が脅かされるとき、人の親としてどうして黙っておられるものか、外国人であるからと沈黙することはできない。

 今まで多くのデモに参加したが「戻ってこなかったらベネズエラのために死んだと思ってくれ」という言葉を母親に残し発砲弾に倒れた若者、偶然通りかかっただけで連行され拷問を受けた青年、脱いだシャツで頭をしばり上半身裸でスクラムを組み一列に並び、デモ隊の先頭を行くまだ幼さの残る学生たちの目つきを忘れることができない。

 「世界の旗の日」というベネズエラに住む外国人や、戦後ヨーロッパから自由や仕事を求めて移民してきた人やその子孫が、各国の旗やシャツを着て集まった日があった。大使館からのメールにはいつもデモに近寄らないようとあり、ずいぶん迷ったが、早朝目が覚めて、どこに住んでいてもその国の平和と自由のためには声をあげるべきだと思い行くことにした。

 日本人の友人に電話し皆に集まってもらうよう声をかけ、夫は裏山から細い竹を切り出し、白いシーツを裂いて絵の具で赤丸を描き、ホッチキスで止めて即席の日の丸を作った。

 集まった20人近くの日本人ぐらいと旗を掲げてアルタミラ広場に到着すると、すでに各国の旗をもって集合していた人たちが駆けつけてくれ、日本までが応援しに来てくれたと抱きしめてくれた。皆、他の国で日の丸をもって歩くという経験は初めてでとても感動していた。

 

▼2004年、大統領罷免選挙にサイン

 

 夫はコンサルタントの仕事をしていたが、2004年、大統領罷免選挙にサインした。しかしながらそのリストが政府の手に渡ってからは、成す事すること全て潰され仕事が一切入らなくなった。済んだ仕事も支払ってもらえず逆に不遂行と起訴されこともある。

 最初は理由が分からず、弁護士をつけたり再投資したり10年近く踏ん張ったが、ある日疲労が祟って意識を失い病院へ運ばれた。どうにか一命だけはとりとめたが、結局は会社を閉めざるを得なくなった。

 当時子供達は幼く頼れる家族もいない私は慌て、自分に何ができるか考え日本語を教えることにした。ちょうど日本文化や日本食など日本ブーム時代で日本語を学びたい生徒が大勢集まり、山や谷はあったが何とか普通の生活を続けていくことができた。

 

▼我が家もとうとう全員バラバラになってしまった

 

 しかし今年、町の広場でスポーツを指導していた娘が、警察官に職務質問を受け大衆を先導した罪で書類送検されそうになったと聞いたときは、心臓が飛び出しそうになった。後で金欲しさの偽警官の脅しだろうということになったが、機転を利かし、何とか切り抜けて無事帰宅するまで、生きた心地がなかった。

 11月に80%の国民の期待を賭けた大統領罷免選挙を最高裁判所が無効にした時、長い間希望を抱いて我慢してきた彼女も国を出る決心をした。これで多くのベネズエラ人の家庭同様、我が家もとうとう全員バラバラになってしまった。

 生まれ育った国を後にするのは最後の手段である。しかし仕事がなく将来に希望を見いだせず、若者だけでなく医者やエンジニア等専門職までが家族や恋人に別れを告げ、言葉も習慣も異なる国で、残した家族に送金するため慣れない仕事をして、過酷な環境に耐えている。

 第二次大戦後、自由と経済安定を求めてベネズエラにやって来たヨーロッパ人の子孫が、今逆戻をしている。

 親も手塩にかけた娘や息子に別れを告げるのは心を裂かれる思いだが、その身の安全を考えると心の底で安堵をし、今できるのはそれしかないと諦め、近い将来の再会を約束し空港で涙の別れをする。

 

▼Eramos felices y no lo sabiamos

 

 政治に関する意見は自分と違ってもそれは各人の意見だから尊重したい。

 しかし、今国民の80%がものすごいインフレと食べるものさえない生活に苦しんでいる。皆が望んでいることは、昔のように仕事があり1日3回食べられ安心して道を歩ける平和な生活に戻ることだ。「Eramos felices y no lo sabiamos」という言葉がよく使われる。「昔は幸せだったが、その時は気が付かなかった」と。

 

▼ベネズエラに38年住んだ

 

 私はアメリカに6年ベネズエラに38年住んだが、その間、日本にいては出来なかっただろう素晴らしい経験や楽しいこと嬉しい思い出が沢山できた。しかしまた悲しく辛いこともあった。

 ベネズエラ人学生と結婚したての時は、言葉や習慣はもちろん、食べ物さえ合わなくて離婚してやろうと毎日考えていた。勉学を終えた夫とベネズエラへ移って、同居した姑と折があわず、とても辛かった。

 1981年日本から遊びに来た母と家族で出かけた帰り道、追突事故に遭い頭を打って意識不明になり1週間後目が覚めた時、母はもうこの世にいないことを知った時のどん底の悲しみ。

 それから立ち上がることができたのは子供がいたからであり、のちにベネズエラ折紙協会を創立し、ベネズエラの子供達にも日本のこの素晴らしい文化を伝えることができ、多くの公私立学校や孤児院、養老院、またギアナ高地のぺモン族にも教えるなど、様々の層の人や大統領夫人等とも知り合い貴重な経験をした。

 それから政権が変わりこの20年近く日常生活が脅かされ、もう我慢できないと何度スーツケースをまとめただろう。しかし我慢し忍耐を重ね、いつかよくなるという希望を失わなかったからこそ今こうやって振り返ることができ、人生は一生修行だという誰かの言葉に頷けるような歳になった。

 今ベネズエラに残り頑張っている友人達から来るメールに励まされ、数は少ないが日本の旧友たちに助けられている。そしてどんな時もこれだけは譲れないとずっと描き続けてきた絵が、一人日本で生きる支えとなり、明日も頑張ろうという勇気を与えてくれる。

 2月末に、東洋と西洋の目で見つめてきた「女性の喜びと悲しみのまなざし」を描いた作品が銀座煉瓦画廊で発表できることになった。とてもうれしい。

 

▼今多くのベネズエラ人が必死で苦難に堪え、闘っている

 

 ベネズエラに住んで、政治が国の将来を左右し人の運命を変え、生きていくというのは本当に大変なことだということを身に染みて学んだ。過去の歴史をみても多くの国で上に立つものは欲と権力に溺れ、民衆の苦しみなど顧みなかった。

 日本も戦争に負けた後苦しい体験から学び、全国民が力を合わせ働いたからこそ今の平和な時代を築くことができた。今多くのベネズエラ人が必死で苦難に堪え、闘っているのを知っている。だからいつかかならずベネズエラにも平和と自由が戻る日が来ると信じている。

 願わくは2017年がこの地球上に住むすべての人にとって、平和であるように祈らずにはおられない。

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