《ブラジル》県連故郷巡り=「承前啓後」 ポルト・ヴェーリョとパウマス=(15)=「日本に良い思い出はない」

トレゼ・デ・セテンブロ移住地のレストラン「バッチャン」の庭に建つ「グヮポレ移民の碑」

トレゼ・デ・セテンブロ移住地のレストラン「バッチャン」の庭に建つ「グヮポレ移民の碑」

 現地の黒田喜与美さんは普段、あまり日本語を話す機会がないように見え、まるで溜まっていたものを吐き出すかのように思い出を語り始めた。

 「私は満州国鉄嶺生まれの引き揚げ者なの。父は何かの事情で一緒に引揚げられなかった。母が肺病なのに一人で5人の子供を連れて命からがら引き上げた。私たちは引き揚げ船の船底に入れられた。そこには死んだ人、病気の人がいっぱいいた。それをかき分けて、お粥をもらいに行ったのよ。お粥っていっても水の中に何粒か米が入っただけ。引き揚げ船の中から母は隔離され、日本についたと思ったら病院で死んだ」。喜与美さんはまだ5歳、壮絶な子供時代の思い出だ。

 育ててくれたのは、義母の服部タネさんだ。2005年にマナウスで亡くなった。父は服部重五郎。「東京での生活は豚小屋のような長屋。すぐ隣が都営住宅で、金持ちが住んでいた。他の子供から『引き揚げっ子』ってののしられて、石を投げられた。死にそうなところに、父がようやく帰って来た」。

 東京都安立区の生活は楽ではなかった。「今でも覚えている。父がゲートルをほどくと、千円札とタバコの葉っぱが一枚。それがあったから、あたしたちは生きて来れた。とにかく生活が苦しかった」。

 父が帰ってきても生活難は続いた。「父は麻雀狂いで、どんなに生活が苦しくても雀荘に行った。だから母は質屋通い。私は幼くて何だか分からなかったけど、あるとき近所の人が教えてくれた。『あなたのお母さんが質を戻せなかった』って。ある時、父がしなびた野菜を指さして『お前たち、これを売ってこないと、食べるモノないぞ』って言われた」という。

 「そんな生活だったから、日本に良い思い出はないの。だから別に日本に行きたいとは思わない。お金があればブラジル国内の旅行をしたい。一回も日本には行ってないわ」と付け加えた。

 その生活を続けるより、ブラジル移住に夢を求めたわけだ。渡伯2年目の1956年に、17歳で黒田重人(しげと)さんと結婚。「子供3人いる再婚者とムリヤリ結婚させられた」という。前妻は渡伯した年、54年11月に亡くなっていた。夫との年の差は15歳。その後、自分の子も二人できた。

 「家畜のエサ作り、カフェダマニャン、アルモッソ、メレンダ、水をイガラッペに汲みにも行った。ヤマに行って動物つぶして塩漬けとか。私はどうしていいか分からなくて、便所で何度も泣いたわ。父はアグエンタし(我慢でき)なくて、75年にマナウス行っちゃった」。(つづく、深沢正雪記者)