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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(7)

 紅茶、誰が産業に
 育てあげたか(Ⅰ)

 前項の前半に記した話からは、レジストロの紅茶=岡本寅蔵というイメージが鮮明に浮かび上がってくる。その産業化は岡本の功によって成った、というイメージである。
 実際、一般的には、そう認識されてきた──といってよいであろう。
それに関して、筆者は(おや?)と思う経験をした。現地である住民を取材中のことである。
 その人が岡本の功に触れながら「レジストロの紅茶は、俺がやったと言うのが、ほかに何人も‥‥」と呟いたのである。
 「やった」とは、会話の脈絡からすると「産業化」の意味であった。そう自負する者が何人も居た、というのだ。
 無論、産業化の過程のある部分を‥‥という意味であろう。
 さらに筆者は『レジストロ植民地の六十年』という本を読んでいた時、75頁以降に気になる記述を幾つも見つけた。以下「」内がそれである。できるだけ原文に忠実に転記したが、誤った字句は訂正、読みにくい部分は多少整理した。‥(略)‥は記事の一部省略の意味、()内と「」外は筆者の補筆である。(同書は、地元で組織された刊行委員会が、1978年に出版)
 「レジストロのお茶の元祖は、岡本寅蔵ということになって居るが、茶の木そのものは、一九一八年頃から(植民地の)試験農場にもあった。岡本が何んとかして茶をつくってみたいと思いついたのが一九二二年」
 「製茶は一九二九年頃から始まり、最初は緑茶で、(岡本以外に)高野喜平も作って居った」
 「緑茶の市場は僅かな邦人社会であり、紅茶の消費市場はそれより広く‥(略)‥優良な品さえ製造すれば、販売は容易であると云われた‥(略)‥そこで当地でも紅茶製造に切り替える事になった。岡本の製造した紅茶は、シャー・リベイラの商標で売り出されて居ったが、現在から見れば、あれで良く売れたものだと思う様な品物であった‥(略)‥緑茶製造には日本で多少の経験があった岡本も、紅茶には経験がなく、全くの手探りの状態で」
 「静岡県の茶業試験場技師の書いた紅茶の製法に就いてという指導書の内容を、ガリ版で印刷して配ったが、これが唯一の指導書で‥(略)‥非常に参考になった」
 こういう前段階があって後、レジストロ植民地では、1930年以降、茶の木を栽培したり紅茶を製造したりする者が急増していた。
 これは同年の革命で政権を握ったゼ・ヴァルガスが、国産品の保護政策を打ち出し、紅茶を含む外国製品の輸入を制限したことによる。
 「この頃の製茶は何の機械設備もなく、原始的な家内工業で、萎凋した葉は足で揉み」
 少々汚い気がするが、この足揉みは、後に日本から揉捻機を輸入するまで続いた。
 1934年には、茶の木の栽培者は70~80家族、作業場を持つ製茶業者は17家族を数えていた。しかし品質は悪く、レジストロ茶は不潔という悪評も流れ、滞貨が山を成した。質と製法の改善が急務となった。
 偶々、同年、岡本寅蔵が一時帰国することになった。
 そこで栽培者・製茶業者が、レジストロ茶業組合という任意の組織をつくり、アッサム種の茶の木の種子の入手と日本からの揉捻機の輸入を依頼した。その時、組合長に岡本を選んだ。(任意=法的には非登録、の意味)
 日本で、岡本は揉捻機を入手して、ブラジルに向かった。途中、セイロンで種子を買おうとしたが、これは厳禁されていることを知り、ハントした。
 「ところが、(レジストロに戻った)岡本寅蔵は‥(略)‥組合から離脱、従って組合としては、彼に託した用件を、また新しく手配し直さなければならなくなった」
 組合長‥‥しかも大任を果たして戻った当人が、組合を離脱したとは、深刻な異変である。彼を憤慨させる余程のことがあったのであろう。
 例えば、その労に十分報いなかった、といった類のことが‥‥。六十年史は、それに触れていない。代わりに次の様な記述がある。
 「(岡本はセイロンから持ち出した)種子から六十余本の苗木を得、これを本樹として漸次、自己の農園(の茶の木)をアッサムに切り替えることが出来た。
 尚、アッサムの種子については、他に、ミナスから持ち込んだものがあり、ピンダモニャンガーバの東山農場から入手したジャワ系のものがある。
 ミナスからのものは(植民地の住民の)大原重治がミナス旅行の帰途、持参したもので、海興の試験場に植え、主任の林粂蔵が、それを本樹に苗木をつくって分譲した。
 ジャワ系のものは少し遅れて、一九三八年海興の宮腰(千葉太支店長)の世話で、東山農場から一ラッタの種子を得ることが出来、それをツピー農場に植え、本樹にして苗を作り、組合員に分けた」
 ツピー農場というのは、前出のレジストロ茶業組合が改名、法的登録をしたシャー・ツピー組合の農場のことであろう。なお組合は、揉捻機に関しては、改めて日本から輸入した──。
 以上、意外な話が多い。特に「岡本はセイロンから持ち出した種子も日本から持ち帰った揉捻機も、自分の処のみで使った」「アッサムの種子が国内でも入手できた」ことを知ると、興がかなり冷める。
 ともあれ、レジストロの紅茶の産業化は、種子入手、育苗、揉捻機の導入の段階に於いて、岡本の労は大であったが、それ以外の人々によってなされた部分も、かなりの比率を占めていたわけである。

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