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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(9)

 何故、衰退したか?

 レジストロの紅茶は、1982年から、空前の好況期に入った。国際的に価格が高騰、折からのブラジル政府の──すべての輸出に対する──奨励策も重なって、業者の収益率は大きく膨張した。
 当時、山本スタンダードの社員であった金子国栄氏(前出)によると「山本さんは、紅茶に不況は、もう来ないのではないか‥‥とすら言っていた」という。
 生産量は1万2、000トンに達した。90パーセントが輸出されていた。概算であるが、茶園と製茶工場で働く労務者の家族の構成員は2万人近かった。
 しかし実は、これが、その長い歴史の中での頂点だった。1986年以降、勢いは急速に失われて行く。
 その頃、製茶工場は──一貫生産体制を整えた──7カ所のみになっていたが、1990年代から2000年代にかけて、次々と最期を迎えた。
 1994年、コチア産組が解散、製茶工場は(組合から分離して続けるという方法もあったが)閉鎖した。
 同年、山本スタンダードもスタンダード・ブランドが撤収、操業を停止した。そして他の工場も‥‥。
 こうなった原因は「為替」であった。国内通貨の対ドル・レートが抑えられ過ぎて、採算がとれなくなったのである。ブラジル経済の大破綻が惹き起こした狂乱現象の一つであった。
 その大破綻は、1960年代の後半、連邦政府の財政を担当したデルフィン・ネットの借金政策の失敗が招いた。
 これには、あらゆる産業が巻き込まれたが、70年間に渡って苦心惨憺、築き上げてきたレジストロの紅茶も、例外たりえなかった。
 2013年1月、筆者は車で植民地内をひと回りすることができた。地元の協力者のお蔭である。(名前は本人の希望で伏す。本稿の別の項でそれを記していない場合も、同じ理由による)
 紅茶の歴史の跡がアチコチに在った。一住民宅に寄った時、倉庫の様なモノがあったので、これは何かと訊くと「お茶の工場」だという。
 煙突が取り外されていたので、気づかなかったのである。
 先に記した荒茶工場の一つで、操業していたのは、無論、遠い遠い昔のことだ。
 傍にある住宅は、樹木の枝葉や蔦で外壁が隠れていたため、判らなかったが、中に入ると金をかけた作りであった。好況期に建てたものであろう。
 岡本工場の傍らも通った。道に面した小さな斜面に、茶の木が何本も植えてあった。
 ポ語の説明書きがあり、徐行する車の中からチラッと見ただけだったが、セイロンから持ち帰った種子で育てた木の何代目か‥‥のようであった。
 工場はシンと静まっていた。国内販売を主としていたここも2007年、操業を停止したという。詳しいことを知りたいと思ったが、時間がなく取材できなかった。
 操業を続けている製茶工場は、一カ所だけになっていた。天谷(アマヤ)家のそれである。このファミリアは初代の天谷捨吉(北海道)以来、三代目になる。堅実経営を貫いてきたことで知られる。
 無駄金は一切使わず、石橋を叩いて渡った。銀行融資には絶対手を出さなかった。初代の夫人は、経済的に豊かになっても、御婆さんになっても、昔通り働き続け、ある日、鶏の餌用の野菜を刻みながら、コトリと逝ったという。
 製茶工場の相次ぐ廃業に伴い、茶の木の栽培も減り続け、2013年1月現在、大手は一カ所のみとなっていた。
 西芦谷さんのファミリアである。ほかに小規模栽培者が数家族‥‥。収穫した葉はすべて天谷家の工場に供給されていた。
 なお、2016年11月、現地に問い合わせてみると、状況は変わらないが、ささやかに製茶を再開した人も居る由であった。

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