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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(12)

 森の中の白骨死体(Ⅱ)

 2013年1月、筆者は再度のリベイラ流域の旅の途中、セッテ・バーラスで、前項の白骨死体の話を耳にした。そこで、遠藤寅重さんに
 「現地へ連れて行って貰えないでしょうか。途中、道は悪く、植民地の跡も森に戻ってしまっていて、車で中に入ることは難しいかもしれませんが、できるだけ近くへ行って感じを掴むだけで結構です」
 と頼んでみた。キロンボ植民地の悲劇を象徴する事件であり──桂植民地の場合と同じ理由で──そうすべきである、と思ったのである。
 遠藤さんは承諾してくれた。が、「長いこと、キロンボの方へは行っていない。道(前出の州道)は最近、舗装されたことは知っているが、キロンボまでそうであるかどうかは判らない」という。
 ともかく我々は出発した。ところが、遠藤さんが運転する車は、舗装されて間もないことが判る路面をスイスイ走って行き、そのまま植民地の入り口に着いてしまった。
 「中に入ってみましょう」と遠藤さんが言う。(入れるのか?)と心配したが、土に小石を混ぜて固めた林道が通っていた。これも整備された直後という感じだった。
 ただ様子が全く変わってしまっており、何処を走っているのか判らず、遠藤さんが困惑し始めた。
 植民地の痕跡らしいものは何一つ見つからなかった。ただ、林道の両側は、確かに山ばかりだった。平地を見ることはなかった。海興が、こんな所に植民地を造ったのは、何故だろうか?
 多分、青柳郁太郎がレジストロで地権問題で煮え湯を呑まされたのに懲り、そういう惧れが一切ない払下げ候補地を探し、その一つがここだったのであろう。
 しかし、こんな土地で、まともな農業ができる筈はない。それと「キロンボ」とは、大昔、奴隷がファゼンダから逃げ出して隠れ住んだ処である。彼らは人里遠く、追手が見付け難い場所を選んだ。当然、市場からも隔絶しており、益々いけない。
 遠藤さんが見覚えのある道を見つけた。しばらく走った後「ここが、石川マサさんが住んでおった処です」と教えてくれた。ただの雑木林の中に雑草が繁っているだけで、家らしいモノは見えなかった。
 マサさんの霊気を感じるのではないか‥‥と期待していたが、そういうことはなかった。
 筆者は、本稿①で記したカジャチの福田のお婆ちゃんが、子供の頃キロンボに居った、と話していたことを思い出した。そこで二度目に会った時‥‥ということは、このセッテ・バーラス行の直後であったが、訊ねてみた。
 「キロンボ時代、石川マサというあなたと同じ年頃の女の子が居た筈ですが、覚えていませんか?」と。答えは、こうであった。
 「よく覚えていますよ。私はマサちゃんの遊び友達でした。歳が同じで、家が近くでしたから。マサちゃんは晩くなって、私の家に泊まったこともありました」
 悪気のない普通の女の子だったという。
 お婆ちゃんのファミリアは(同①参照)キロンボを短期間で去っている。普通の転出であったようだ。レジストロへ行き岡本家の茶園で働き、次いでセッテ・バーラスに転じた。
 といってもキロンボに戻ったわけではない。海興とは関係ない別の土地であった。(マサちゃんは、どうしているかしら‥‥)と気にはかけていたが、会うことも噂を聞くこともなかった。
 お婆ちゃんは娘時代、フェスタに出かけた時、一人の青年に見初められた。青年、つまり福田孝さんは(サンパウロから来た娘さんだと思った)そうである。二人は結婚した。ほぼ20年後、カジャチへ移り、バナナを作って成功した。
 お婆ちゃんは豊かな生活に恵まれ(マリードには先立たれたが)家族、特に孫やひ孫に愛され、社会的な評判も得た。
 その間、マサさんはキロンボの森の中で、ずっと暮らしていた。そのまま(多分)結婚をすることもなく、年老いた。一人細々と生きていた。気が強かったという。
 治安が悪かったこともあろう、人が家に近づくとフォイッセ(大鎌)を手に出てきて、刺々しい応対をした。(私、あの人、大嫌いだった!)と、筆者に言った婦人もいる。
 長年の不幸が、その性格を歪めてしまったのだろう。そして一人で死に、白骨となった。そのことは、福田のお婆ちゃんは知らなかった。
 筆者が伝えると、黙ったまま‥‥何かを考えている様子であった。予想外の反応であった。現実感がなかったのかもしれない。

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