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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(13)

 存在感を維持
                               

ニウセさん(プロジェクトの1つの工事現場で)

ニウセさん(プロジェクトの1つの工事現場で)

 暗い話になってしまったが、2013年1月のセッテ・バーラスは、ごく普通の明るいムニシピオだった。
 人口は1万3、600人、日系は戦前の最多期は380家族居ったが、この時点では80家族ということであった。比率が少ない割には、日系の市長が続いていた。
 その中で2008年から一期4年務めたニウセ・アキコ宮下さんは、この国初の女性日系市長で、ムニシピオのために50件という大量のプロジェクトを実現させた。
 これは無論、簡単には行かなかった筈である。ムニシピオの予算だけでは全く足りず、州政府その他の関係機関を駆けずり回って、補助金の類を毟り取ってくるくらいのガムシャラさが要ったであろう。
 ところが、それほどの実績を上げたのに、二期目の選挙は惜敗してしまった。プロジェクト関係の仕事で忙しく、選挙の準備が手薄になったためという。筆者は、こういう人物に興味を持つ癖がある。
 そこで、その自宅を訪ねた。ごく普通の家の中から、ごく普通のオバさんが出て来た。掃除をしていたらしい様子だった。
 それがニウセさんだった。偶々、ご主人と息子さんが居って、一緒に取材を受けてくれた。
 ニウセさんは、1950年にペドロ・トレードに生れたという。リベイラ流域の北東部の端にあるムニシピオである。1970年、結婚してセッテ・バーラスへ来た。
 ご主人はバナナ作りを、彼女は小学校の先生をした。ちなみに、ここの主産物はバナナである。日系人もそうで、大きくやっている人も居るが、4~8万本規模が多いという。
 ニウセさんは、先生の仕事を通じ、農村部の貧しい住民の生活、教育の深刻な実情を知り、プレフェイツーラへ行って救済を頼んだ。
 が、何もしてくれなかった。そこで彼女は、自分が市長になろうとして、選挙に立候補した。
 3回目で当選したというから、半端な覚悟ではなかったわけだ。またそういう決断力と行動力の持ち主なのであろう。
 ちなみに、市長になるずっと以前のことだが、息子さんが、どうしても日本へ働きに行きたいと言い出した。ただ15歳だったため保護者が必要だった。
 そこでニウセさんも一緒に行って働いた。無論、一労働者として──。
 治安問題を話題にしてみた。ここでも、マコニャを売買する輩が現れ、強盗事件も起きた──という噂を耳にしていたからだ。
 「警察にデレガードが居なかったので、派遣して貰ってから、よくなった」とニウセさんは短く答えた。横から息子さんが、こう付け加えた。  
 「ポリシア・ミリタールが来て、バンジードを撃ち殺した」
 話は変わるが、筆者が、この数日前、初めてセッテ・バーラス入りした時のことである。最初に地元の文協を訪問した。
 会館は新築中、完成間近で、一人の日本人が壁を塗っていた。驚いたことに、会長の遠藤寅重さん自身であった。実は本職は大工で、壁塗りに限らず、建築作業は「大抵のことは、自分でやりました」とのことであった。(この会館については本稿⑳参照)
 それから4年近く経った2016年11月、筆者が遠藤さんに、その後について、メイルで問い合わせると、10月の統一地方選挙では、市長には非日系の候補が当選したが、副市長に、遠藤さんの三男ジョルジ清春さんがなったという。
 なお、遠藤さんは80歳を越したので、文協会長を勇退した。
 その後任にも、ジョルジ清春さんが選出されたそうである。
 新会館は講習会、結婚式、卓球大会など各種の催しに利用されており、こういう施設はなかったので、住民から喜ばれているという。
 10年前に、条例で5月の第4土曜日が、このムニシピオの「日系社会の日」に指定されたというから、非日系の住民の好感も得ているのであろう。
 ともあれ、セッテ・バーラスの海興の植民地は消えていたが、日系人は、その存在感を維持していた。結構なことである。

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