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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(17)

 フランコさん

フランコさん

フランコさん

 レジストロの郊外でバナナ園を営む大矢フランコさんは、2012年7月、筆者が初めて会った時、80代の半ばであった。
 が、毎日、早朝に起床、自分で車を運転して90ヘクタールの農場を見回り、仕事の段取りを35名の労務者に指示、BR116を大型カミニョンが前後を疾走する中、100キロくらいで飛ばして8キロ離れた市街地に出かけ、文協に寄ってサンパウロから届く邦字紙を受け取り、ルアでオ・エスタードを買い、時々ライオンズ・クラブに顔を出す──という壮健さであった。
 筆者は、その農場を車で案内して貰った。バナナの樹林がどこまでも続いていた。「10万本あるが、リベイラでは中くらいの規模」だという。
 ほかに牛を放牧、パルミット・ププーニャを栽培していた。
 途中、4キロの堤防を通った。道幅は4メートル、高さは4~6メートル、底辺は12~20メートル、大きな排水口も設置してあった。しかも堤防は延長中という。個人の農場としては大工事である。
 この土地を1975年に買った時、4メートルの竿を突き刺すと、手元までズブリと埋まった。近くに自然のままの川が流れており、湿地帯になっていたのだ。水害の虞があり、堤防を築いた。
 が、2008年に大雨で決壊、当時あったバナナ樹5万本の過半を失った。
 フランコさんには「高収益を上げる‥‥つまり上手なバナナ作り」という世評がある。当人も筆者に収支を明かしてくれたが、世評通りの内容であった。
 無論、一朝一夕に、そこまで達することができたわけではない。
 1928年、前出のペドロ・トレードの邦人集団地で生まれた。ファミリアは米作りをしていたが、7年不作が続き、西隣りのペドロ・バーロスへ移ってバナナの歩合作に転じた。
 それを子供の頃から手伝い、房を収穫し手押し車で川岸まで運び、船に積み込んだ。ファミリアは、これで少し資金をつくり、セッテ・バーラスに20ヘクタールの土地を買って移り、バナナ園を自営した。
 青年期、父親と意見が合わず家を出、ポルト・アレグレへ行き、その近郊で野菜作りをした。そこには10家族くらい日本人が居たが、なんと、半分は(他所の土地からの)夜逃げ組だったそうである。
 ここは半年ほどで切り上げ、サンパウロに移り戦勝派の昭和新聞で発送係をした。社長の川畑三郎は(世間が今日も抱いているイメージとは違って)学者肌の人だったという。給料は出なかったが、飯だけは食わしてくれた。当時は未だそんな職場が多かった。
 次いでカンタレイラ街にあった市営市場(いちば)、通称メルカードの魚屋で働いた。暫くして市場側から話があって、自分でバンカ=売り場=を預かり、青柳(当時の代表的な料亭)で使う魚を一手に受注した。
 音楽家を志し、上村楽団でアコーデオンやギターを習った時期もある。が、音楽では飯が食えないことが判り、セッテ・バーラスに戻って再びバナナを作った。その内(1960年代後半から)政府が農業融資に力を入れ始めたので、それを利用した。
 市況も良く、儲けで買ったのが現在の農場の土地である。1981年、インフレの無気味な高騰を見て(危ない)と感じ、融資の利用を止めた。
 これで──多くの農業者が巻き込まれた──危機を回避した。が、1994年、所属していたコチア産組の瓦解で、預金の半分を失ってしまった。
 南銀の身売りでも損害を被ったが、金額が小さかったので放置したという。
 「バナナは通算70年近く作っている。今では楽しみでやっており、死ぬまで続けるつもり」とフランコさんは微笑していた。が、同時に、こういうことも言っていた。
 「リベイラのバナナ作りは、年々難しくなっている。クストが上昇、資本力の無い人は続けられず、やめて行く。それを資本力のある人は待っている。全体的な生産量が減れば、バナナの値が上がるからだ。技術力のない人も消えて行く」
 技術については、フランコさんは長い経験の中で、まず苗を見ただけで、いつ出荷できるか見抜く目を養った。
 さらに市況の良い1~6月に出せる様に、苗の成長を調節する方法を見つけた。芯を止めて新しい芽を出させるという方法である。
 「コロンブスの卵のようなものだった」そうだが、これに慣れるまでに長い時間がかかった。2、3メートルになっている苗を大量に駄目にしたこともある。
 筆者は、この人と接していて「年季の入ったバナナ作り」という印象を受けた。

 強盗、来れば闘う

 そのフランコさんが、気を配っていたのが、強盗である。
 いつもカルサの後ろのボルソに小さな拳銃を入れており、車の中にも中型の拳銃を、家の中にはソファーの隙間に大型の拳銃、別の目立たぬ処にはライフルを‥‥という具合だった。
 「強盗に襲われる危険は常にある。襲って来れば闘う」と、平然たるものであった。
 射撃に関しては、若い頃、狩猟クラブに入って腕を磨いたという。1964年‥‥つまり50年近く前、まだ30代のことだが、友人の警官から「警察だけでは、手に負えない」と応援を求められ、バンジードの逮捕に同行した。二人倒した。命はとらず、足を撃ち抜いた。
 「現在まで襲われたことはないが、注意はしている。ラドロンは、狙う農場に仲間をカマラーダとして潜り込ませ、内部を探った後、やってくる」と、警戒怠りない様子であった。
 2016年11月、筆者はフランコさんのその後を知るため、電話をしようとした。が、本人が難聴であることを思い出し、レジストロの文協に訊いてみた。今も元気で新聞を受け取りに来る、という。
 ただし二日に一度に減っている由。これは体力の衰えによるものではなく、新聞の到着が二日に一度になったため。歳は、もう90に近い筈だ。
 こういう味のある人には、達者で長生きして貰いたいものである。

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