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ブラジル独立記念日特集=えっ、本当 独立の影にフリーメイソン?!=総本部長だったペドロ一世=暗号で伝達されたイピランガの叫び

イピランガで独立を宣言したペドロ一世(By Pedro Amério, via Wikimedia Commons)

イピランガで独立を宣言したペドロ一世(By Pedro Amério, via Wikimedia Commons)

石工職人のギルドの名残を残す定規とコンパスのシンボル(By MesserWoland, via Wikimedia Commons)

石工職人のギルドの名残を残す定規とコンパスのシンボル(By MesserWoland, via Wikimedia Commons)

 全世界におよそ600万人もの会員を有し、世界最大の友愛結社として知られるフリーメイソン。絶対王政から啓蒙君主、そして市民革命へと続く激動の時代に於いて、自由博愛の思想を掲げて急速に広まった同結社は、アメリカ合衆国建国やフランス市民革命を扇動してきたと噂される一方、秘密組織ゆえに様々な憶測が飛び交い、世界を牛耳っているという陰謀説まである。ブラジル独立記念日を迎えるにあたり、その時もフリーメイソンが〃活躍〃したとされる説にスポットを当ててみたい。

 フリーメイソンの起源には諸説あるが、通説では中世の石工組合に遡る。当時、建築はあらゆる分野に精通する王者の技術とされ、その伝承には厳しい掟が設けられた。時を経て、その職人団体が友愛団体へ変貌し、16世紀後半から17世紀初頭にかけて英国で発足。現在の形になったと言われる。
 特定の宗教を持たず、自由、平等、友愛、寛容、人道を基本理念とする同結社は、カトリック教会などの宗教権力からも敵視された。フランス革命の当事者も多くが関与していたため、体制転覆を図る陰謀組織としてしばしば弾圧を受けてきたことも事実だ。
 『ブラジル・グランド・オリエントの歴史』(ジョゼ・カステラーニ、ウィリアムカルバーリョ両著、2009、マドラスエジトーラ出版)によれば、ブラジルでは、欧米諸国に遊学経験を持つ当地出身者を中心に19世紀以前から活動が行われていたとされる。

▼リオに最初の拠点

東洋街にあるフリーメイソンのロッジ

東洋街にあるフリーメイソンのロッジ

 だが、初の常設ロッジ(拠点)「レウニオン」が首都リオ・デ・ジャネイロに建設されたのは1801年。その後、03年に2つのロッジが建設されたのを機に、リオを拠点として、バイーア、ペルナンブーコへ拡大していったという。
 時を同じくして、ブラジルに政治的転機が訪れる。09年にナポレオンの侵攻を受けたポルトガル王室は、女王マリア一世以下皇室の成員及び貴族ら一万5千人以上がリオへ退避した。15年には、「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」として、ただの植民地から王国に昇格した。
 だが、それに伴なって始まった重税などに対する王室への不満と革命思想が結びつき、18年に「ペルナンブーコ革命」が勃発する。その扇動にフリーメイソンが関与したとされ、ロッジでの活動禁止を余儀なくされる。だが指導者のジョゼ・ジョアキン・ダ・ロッシャらは、「抵抗クラブ」を立上げるなど、密かに地下活動が続けられていた。
 ナポレオン没落による欧州での戦争終結の後、ポルトガルでは、1820年に自由主義革命が勃発する。それによって発足した制憲議会(コルテス)は、ジョアン6世一家の本国帰還を要求。続いて、ブラジルの植民地への格下げやペドロ王太子帰還を命じたコルテスの布告に対し、ブラジル国内では反発が強まり、それが独立への道を開くことになる。

▼王の本国帰還で植民地に逆戻り?

 両国の間で軍事政治的緊張が高まるなか、政党も存在しなかった当時は、それらの不満を代弁し調整、動員する組織が求められた。そこで表舞台に登場したのがフリーメイソンであり、多くの独立の指導者はそこに属していたと同書にある。
 伯国総本部グランド・オリエントのフェルナンド・コラチオッポ情報局長によれば、本国からの帰還命令に対し、ジョゼ・ボニファシオ・アンドラーダ・イ・シウバら3人のフリーメイソンからペドロ王太子に対して、ブラジルへの滞留を懇願する書状が送られたという。
 情報提供サイト「エスパッソ・デ・マソン」を運営する人類学者のジェナロ・フィゴリ氏によれば、1821年9月から翌年10月にかけて、フリーメイソンであったジョアキン・ゴンサレス・レド率いる自由主義派指導者らによって雑誌「Reverbero Constitucional Fluminence」が刊行された。
 それにより国民意識を喚起し、独立に向けた認識形成に大きく影響を与え、離伯しないで欲しいとする8千人の嘆願が集まり、22年1月9日のペドロ王太子のブラジル滞在宣言に繋がったとされる。
 ペドロ王太子は、「それが全員の利益にして、国民全ての幸福となるのであれば、国民に留まると言う準備は出来ている」と宣言。これらをきっかけに、自由主義の擁護者でもあったペドロ王太子は、フリーメイソンとの関係を深めてゆくことになったという。
 その後、1月18日には、フリーメイソンのジョゼ・ボニファシオを国務大臣兼外務大臣に起用。同年5月にはフリーメイソンからペドロ王太子に「永遠のブラジル守護者」の称号が授与される。
 「エスパッソ・デ・マソン」サイトによれば、同年6月には、危機のさなか独立のために総本山「グランド・オリエント」を設立し、大本部長にはペドロ王太子が選任され、トップに就任することになる。

▼暗号で「独立か死か」

 その後、ペドロ王太子の帰還のためブラジルへの派兵を宣言する本国と、その本国軍上陸を阻止するブラジルとの間で危機は最高潮に。
 リオ以外に援助を求めミナス・ジェライスやサンパウロを訪問していたペドロ王太子のもとに、コルテスからリオの自治政府解散命令が出された旨の文通が届いたのを見たペドロ王太子が、聖市のイピランガの丘で「独立か死か」と叫んだのは有名な話だ。
 だが、興味深いことにコラチオッポ情報局員によれば、この有名な宣言はフリーメイソンの総意だったという。その前月20日、リオにある3つのロッジが集結した総会で既に独立が宣言されていたといい、ペドロ王太子に届けられた文通のなかには、暗号で「独立か死か」という言葉が書かれていたという。
 宗教権力から弾圧されてきた経緯から、フリーメイソンは外部に情報を漏らさないため、仲間同士を確認するのに暗号が使われ、それが定期的に更新されている。教典にも一般人が解せないよう暗号が現在もなお使われている。
 これらフリーメイソン側の記述が真実ならば、ブラジルの独立にはフリーメイソンの強大な意志が働いていたということになりそうだ。

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