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第35回武本文学賞を総括して=作品にコロニア語を使おう=ブラジル日系文学会長 中田みちよ

昨年の第34回武本文学賞授賞式の様子

昨年の第34回武本文学賞授賞式の様子

 「武本文学賞」というのは、日系社会の文学活動を創立時からささえてきた武本由夫(1983年逝去)を顕彰して設置されたものである。83年に募集され第一回発表が1984年発行の「ブラジル日系文学15号」誌上、その後35年間継続されてきている。
 そして2015年には創刊50周年を記念して、この間の受賞作品を集めた『武本文学賞受賞作品集【1984~2014】』を出版した。
 2018年はその35回目(応募総数19編)となるが、全体的な応募者の減少(もとより想定内)、同時にレベルの低下は覆うべくもないものであった。
 また2015年には武本文学賞のなかから『詩』と『川柳』部門が姿を消しているのだが、これも、応募者があまりにも少なかったからで、この35年間に、各部門とも顔ぶれが新しくなることはなかった。
 以下、入賞作品をあげながらコメントを加える。
    ◎
【小説】4編(17年度7編)選者・醍醐麻沙夫・西澤紘子・中田みちよ。全応募作品を佳作とする。
「消えた商店街ジャシント・シルバ」栗山舎人
「種をもう一つ」鎌谷昭
「ああ、なんてブラジルは」勢田五郎
「旅路」「霧の中の魂」田口さくお
 応募作品はいずれも、一定の水準に達していて初歩的なあやまりもない。が、書き手の意気込みがみられない。また、応募者はいずれも応募常連者であるが、前作よりも進歩がみられない、というのが、入賞者なしの理由である。
 日系人が集中しているリベルダーデ界隈でも、日本移民がブラジルに渡って110年という時間の経過を如実にあらわすように、路上で日本語がときたましかきかれくなって久しい。
 応募者が70代以上で、いずれ日本語を書く人がいなくなるのでは、という危惧をかかえるなかでの、日本語の書き手に対するひとつのオメナージュとして、応募全作品を佳作としたものである。文学賞じたいの存続を問われる時期かもしれないという、実施団体の内省もある。
    ◎
【俳句】6編(16年度7編)選者・小斉棹子・伊那宏。
《入選》
秋の彩・・・・森原博
《佳作》
無題 ・・・下小園昭仁
山笑う・・・前田昌弘
 『新鮮さ』をかわれて「秋の彩り」が入選となった。この作者もすでに80代の日本生まれで句作歴があさいにもかかわらず、初応募で入選となった。日本語の基礎がしっかりできているということだろう。
 結社ごとの月例句会がいちばん盛んにみえる「俳句」の応募者が6名ではいかにもさみしい。あるいは15句という応募規定がネックとなってのことかもしれない。
 しかし、以前は20句であった。実作者たちの加齢を考え、体力的に無理がかからないように4、5年前に改められたものである。俳句でも短歌でも、レベルを一定させながら15句(首)詠むというのは難しいことなのであろう。
 応募作には実作者自体にその認識もなく、数だけ揃えているという印象もある。年一度のXXX忌や全伯大会があるが、この場合は一句(首)だけが対象であるため、15句(首)をまとめて創ることが難儀なのかもしれない。この点を考慮したい。
 そういえば、文協では、7月の全伯大会の入選者を、11月の文藝賞授賞式で、入選者を壇上に挙げて授賞式を開催しているが、ときどき、入選者から「仰々しくてはずかしい。自分たちは主催者の人集めに利用されている」という声もきかされる。
 文藝賞自体のレベルや選考委員の資質にも問題があるかもしれいと思いながら、各種の授賞式を一つにまとめることができないものかと考える。小さく固まってどうするのかという思いである。
     ◎
【短歌】6編(16年度7編)選者・小池みさ子・上妻博彦
《入選》   
小池みさ子選・夢のあとさき・・・・・富岡絹子
上妻博彦選・日日抄・・・・・・西山博子
 選考とは難しいものだ、といういい例である。選考委員にはそれぞれの傾向があり好みがあって、おのれの立場を譲れない。そのため奇数の選考委員をそろえるのだが、これも途中棄権されたりで思う通りにはいかない。小さな日系社会のさらに小さい日本語話者のグループ活動で、半目しあっては栓もないと思うのだが。
 外部者としては、歌壇はさらに先細りしているように感じる。ブラジル日系文学の事務所を時々、「椰子樹」に利用していただくのだが、いかにも人が少なく元気がない。メンバーは歌歴の長い人たちで、創る歌もレベルの高い秀歌が多い、しかし老人ばかりである。これでは日本語力(レベルの高さ)の点でもブラジル生まれは顔を出せないだろうと思う。
 私たちの祖先がブラジルに渡って110年。韻文はもとより、散文でも私たちはいつも日本を仰ぎみていた。目標が日本なのである。これでは日本の一地方と同じではないかと、歯がゆく思い腹ただしい。なんとかブラジル独自の形を創れないものだろうか。
     ◎
【翻訳】3編(16年度4編)選者・柴門明子・松原礼子・栗原章子
《佳作》
黒い服・・・稲村ひとみ
 課題作はマリオ・デ・アンドラデの『VESTIDA DE PRETO』の短編。応募は3編。佳作入選者はニューカマーの人らしい。
 翻訳部門は内外の要望にこたえて途中新設されたもので、第一回発表が「コロニア詩文学55号・第14回武本文学賞」(99年から法規上「ブラジル日系文学(第1号)」と改名され、州政府から登録番号を取得した正規の団体になっているが、同一組織)。
 この第一回の課題作はギマランエス・ローサの「A TERCEIRA MARGEM DO RIO」。ローザの作品は難解だが格調高く、ブラジル屈指の作家だと私は思うが、初回にこれをぶっつけたのは選考委員たちの勇み足だったような気がしないでもない。選考委員のひとり田端三郎がさじを投げているのである。にもかかわらず、応募者は14名。今ざっと数えてみると、半数はすでに物故者である。
 今年は3編。21年間に四分の一弱に減ってしまった。
 現在、私は本会主催の翻訳講座のわきを固めているが、最近、ほとほと、翻訳者を育成するのは難しいと思う。私たちが目指しているのは、文学作品の翻訳だから書類翻訳とは違って、行間をよみ、作者の意図する思いを伝えなければならない。機械的に単語を置き換えるだけでは文学作品にはならないのだ。
 読解の時点で、原作者の意図をよみとり(これはブラジル生まれには容易でも)、それにふさわしい和語を探すのだが、文章力というのはあるていど生来のものでもある。またブラジル生まれでも100パーセント正しい読みができるとは限らないように、日本人でも行間が読めるとは限らない。
 したがって、日伯両語に精通し、さらに文学の素養をもっていなければならず、また、とりあえずはそれに見合うだけの報酬も得られない。
 村上春樹は好きではないが、彼は翻訳もするから(たぶん自分が好きな作品だけであろう)この点は有利なのかもしれないと思っている。感情移入ができれば、文章化はさほど困難ではないはずだ。私のような者でさえ、目で活字を追いながら、脳内には日本語の文章がするするとわいてくることもあるのだから。
    ◎
【随筆】選者・西尾勝典・宮村秀光・間島章子。本年度は応募がありませんでした。
 なぜ、応募者が皆無だったのか、しばらく、考えた。たとえ随筆部門への応募者が小説部門に多少流れたとしても、理解できなかった。随筆はある程度気ままに書けるので、小説よりはくみやすいはずである。選考委員たちは評の仕方が悪かったか、などと己を責めたかもしれないが、そうではないだろう。その理由を全員で探す方が先決である。
 主催者として、私たちは広く呼びかけ日本からも応募もあったりするが、現地の文章サークルにも直接声をかけるなど手立てはあると考えている。
 そこで、ひとつの提案である。

コロニア語の見直しを

 ブラジル日系文学でも、最近まで文学活動を率先躬行してきた松井太郎や浦畑艶子が100歳を目前に逝ってしまった。ふつう一世代を30年とするなら、ニッケイ社会は三、四世代が大多数を占めているといえるだろう。
 松井や浦畑の孫、ひ孫の時代である(松井太郎の「うつろ船」ポ語版を喜んだのはほかならぬ子息である。日本語では父親が何をやっているか理解できなかったのだ)。彼らに日本語を求めるのは無理である。
 日本語は、金儲けのできなかった「じいちゃん、ばあちゃん」の原型として子孫にインプットされているはずだからだ。わが家でもしかり。母親が日本語で書いていることは誇りにはしていても、日本語は経済語ではないのを百も承知である。
 この10年間、ブラジル日系文学の編集に携わってきて、選考会のたびに、あるいは勉強会の席上いつも議論されてきたのが「コロニア語」である。
 私自身もコロニア語は「きたない言葉」「教養のない言葉」「下卑た言葉」として認識していた。だから、雑誌の編集をするときはコロニア語を修正してきた。あるいはカッコ内に日本語を入れた。日本サイドで読まれるとき解されないだろうという考えからである。
 すると中のひとりが十名足らずの日本人会員のために、それをする必要はないのではないか、と反発してきたのである。そうかもしれない、とこの問題を胸に抱えて日を過ごしながら、相変わらず、コロニア語を修正しつづけた。
 しかし、一歩仲間から離れて、道端で話すときはコロニア語を使わないと、相手と意思疎通がはかれないという現実がある。その立場で考えると「コロニア語」こそ日系社会の宝かもしれないということに気がついた。
 私たちこそコロニア(最近はこれもあまり使用されないが)に生きている言葉、使われている言葉で書き残さなければならないのではないか。
 俳句・短歌でも、コロニア(あえて使用する)内では、日本に投稿すると確実に入賞するというアマゾンやカーニバルや移民という語句は『輸出俳句(短歌)』として現地では相手にされなくなっていると聞く。コロニアの独自性を確立したいという現れであろう。期は熟しているのである。
 あるとき、USPの先生とはなしていたら、消失する以前に「コロニア語」を掘り起し、保存しなければという話を聞かされた。コロニア語を無形文化遺産にしたいともいう。
 その時、目から鱗が落ちた。
 韻文・散文に、コロニアの独自性を出すべきだと理屈では分かっていたのだが、方法論がうかばず、季語で独自性をだすのかぐらいしか思いつかない。ブラジルは日本の一地方ではない。地方支部ではないと考えつつ、どうすればブラジルの独自性が樹立できるのか。ここ2~3年悶々としていた。
「そうか、コロニア語で書けばブラジルの日系社会の独自性が生まれるのか」
 コロニア語を詠み込むことによって、あるいは書き込むことによって、作品そのものが変わる可能性もある。それこそ、進むべき道ではないか。
 なにも難しく考える必要はない。目標を日本での評価に置かなければいいのである(いつも疑問に思っているのだが、ブラジルといえば暑い、ジャングル・カーニバルしか知らない選者たちが、どの程度現地で詠まれる作品を理解(通り一遍でなく)できるのだろうか)。
 コロニア語というのは話し言葉に多用されるから、そのまま書けばいい。すると、使い慣れたコロニア語なら日系社会の比較的若い層も参加できるのではないか。
 先に述べた椰子樹の例でも分かるように、先輩諸氏の高度な日本語でなくても手がとどく。
 いわゆる二世・三世の若い人の歌は、思わせぶりがなく、直球(言葉を装飾できない)だから感動が強い、という指導者もいる。角ばらずに、素直に読めばいいのだ。何だか、道が開けそうではないか。
 今年は日本移民110周年である。たったこれだけのことに気が付くのに、110年もかかったということか(すでに何度かコロニア語は俎上にあがりながら、関係者のひまわり現象(日本志向)がつよく、もみ消されてきた)と苦笑しながら、コロニアの文藝が生まれ変われるときがきたと喜んでいる。
 また、USPの研究者たちとも「コロニア随筆選集」や「コロニア小説選集」を提供しながら、コロニア語を拾い上げる作業ぐらいはお手伝いできるのではないか。
 散文、韻文を巻き込んだ大きな一つの輪にしたいものである。
    ◎
 なお第35回武本文学賞授賞式は、2018年3月25日午後2時から、例年通り宮城県人会で開催されます。会員・非会員を問わず文学好きの方は、どうぞご参加ください。式終了後にカクテルパーテイー(無料)があります。

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