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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(12)

 所長は数名のソ連軍下士官に命じて、捕虜の人員を数えさせた。ソ連軍下士官たちは各中隊の間に入り、
「アジン、ドヴァ、ツリー……」
 と、声を出しながら数えてゆく、途中でやめて先頭に戻ると、初めから数えなおす。途中でやめるのは、数えているうちに分らなくなるらしい。二、三回繰返したのち、最後尾に辿りつく。最後尾が一人~三人缺けていると、そこで計算ができなくなるようで、紙に書いては消し、そして初めからやり直すのである。
 とうとう五列縦隊に整列を変え、また初めから、アジン、ドヴァ、ツリー……と数える。数回繰返して点呼が終った。
 四列も五列も掛算で簡単に答がでるのに、奴らは掛算ができないのだろうか。
 その間、列間のわれわれの苦痛は限界を越えようとしていた。形容しがたい苦痛である。終戦時のままの夏衣だから、酷寒は躯中を締めつけ、しかも二〇日余り食なしに近い状態できている。たまったものではなかった。休みなく足踏みをし、手で頬、鼻、耳をこすり続けた。
 ソ連兵は完全な防寒衣服を着用している。外套は裏側の毛皮がチラチラ覗いているし、靴はフェルト製で内側は毛皮張りである。日本軍の将校たちは、冬服に外套姿である。
 捕虜の惨めさが骨身にしみた。
 長い点呼が終った。拷問を受けたあとのように、心身ともに萎えてしまった。が、点呼が終ったことで、ホッとした気持になった時、
「各中隊毎に作業場へ前進」
 と号令がかかった。萎え切っている体力、そして夏衣である。飯も食わさないで、この酷寒に作業とは、奴隷以下ではないか。腹の皮はすでに背中にくっついている。
 ソ連の奴らは、われわれをロボットと勘違いをしている。畜生、と腹がたったが、奴らは武器を持っている。隊列は柔順な羊のように動きはじめた。理不尽でも命令一下、死地に飛び込む習性が消えていないのだ。六〇〇人の人員確認は、四箇中隊の編成ならば五分もあればすむ。なのにこの酷寒のなかで一時間近くもかける点呼を、毎朝夕やられるのかと思うと、情けなさを通り越して、絶望的な朝夕の情景が目に浮かんだ。
(※註=一九九二年五月、序に書いたように戦友、遺族とともに収容所跡三ヵ所へ墓参に訪れた際、村役場で訊ねた。村は海抜三〇〇〇mのソションド山脈中にあり、北緯五〇度東経一一二度に位置しているということだった。道理で、トラックで南へ二日がかりの行程であったのに、音さえ凍る酷寒の地であったことが、四七年目に氷解した)
 チタ市から村まで、直線距離三三〇㎞、陸路五五〇㎞である。モンゴルとの国境を指呼の間にのぞんでいた。この山路を二日間かけて登ったのだから、これほどの高所に運ばれた実感がなかったのだ。

  八、強制労働

 隊列が動きはじめると、将校たちはさっさと宿舎に入った。将校は部下を見捨てたらしい。衛兵所の門を出ると、防寒帽と防寒大手套を渡された。夏衣に防寒帽と防寒大手套を着用しても、酷寒は着衣を通して躯を緊縛してくる。
 カンボーイ(監視兵)二〇数名が、隊列の前後左右に散って、『ダバイ、ダバイ』(早く、早く)と怒鳴り、急がすのだが捕虜たちは、ノロノロとしか歩けない。地理不案内、しかもこの酷寒の中を夏衣で食料もない捕虜が、逃亡するはずはないのだ。なのに全く仰々しい警備が腹立たしい。

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