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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(16)

 見回すと全員俯いている。軍の組織は解体しているはずだが、われわれの意識は、まだ階級秩序にしばられていた。上官の言葉は理不尽であっても、一切異をとなえないで死地に飛び込む習慣が残っていた。さらにソ連側は旧日本軍の組織をそのまま利用し、捕虜の統率を容易にしようと図った節があった。
(註)ビクトル・カルポフ(一九九六年ウクライナ軍中央博物館長)の著者『スターリンの捕虜たち』の一節に次の記述がある。要約する。
ソビエト将兵たちは捕虜の食料を自分たちの家族に補充した。さらに日本軍の将校は兵卒と食事の苦境を分かち合おうとはせず、自分に完全な配給量を要求した。日本の兵卒は残されたものを宛がわれた。

 ソビエト将兵と日本軍将校双方の責任のように書かれているが事実は当初、ソビエト将兵が捕虜用の大部分の食料を盗み、さらに日本の将校は僅かに配給された食料のほとんどを、自分のために横領したから兵卒は食うや食わずで飢餓線上をさ迷い、次々に死んでいったのである。私たちは痩せ衰え、毎日飽きもしないでありとあらゆる食物を語り、お袋の手料理をこと細かく話し合っては溜息をついた。話しの種が尽きると、
ー畜生、腹一杯食いたいー
 と、呟くのだった。ペーチカの火は消えたままである。薪を取りに行く力のあるものはいなかった。
 
  一一、便所

 空腹に耐えかねて枯草を食うのだが、腹一杯は食えない。なのに毎朝排泄をもよおす。便所は兵用宿舎二棟の間に設けられた。縦二mx横五mx深さ一m余の穴に、丸太を二本組んだものを三〇㎝間隔に置いただけである。囲いはなく吹きさらしで、風流といえば風流である。
 初めは尻を出してかがむと凍傷になりはしないかと、恐る恐るかがんだものだった。やってみて分ったのだが尻の神経は鈍かった。凍傷にかかることはなかった。寒さもあまり強く感じなかった。
 各人がかがむ位置が決っていないのに、凍った便が盛り上がってくると、先端は槍先を並べたように林立する。迂闊に腰をおろすと直撃される。そうなると当番制で汲み出しではなく、立ち並んでいる槍を崩すのだ。ツルハシ、鉄棒、スコップを持ち、二人~三人で穴に降りる。道具を駆使して突き崩し、砕いてならす。
 天気の良い日は、飛び散る微片が着衣にくっついて溶け、全身臭気にまみれる。曇天の日にくっついた微片は、室内に戻ると次第に溶けて、傍にいる奴は
「たまらん。臭い」
 と、嫌味をいった。しかし奴が当番に当ってから、文句を言わなくなった。用便の後始末に初めは褌を千切って用いた。紙など薬にしたくも無いから仕方なかった。褌が姿を消すと、木片など拾ってきて始末をした。これは僧侶だった人が教えてくれた。さすがに千人針には手がつけられなかった。寒い冬の街角にたち私の無事を祈りながら道を行くご婦人に一針一針お願いして、仕上げてくれた母の姿が目に浮ぶからであった。
 捕虜生活に順応してからは、ソ連兵にならって後始末をしなくなった。

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