海外日系新聞協会の共同企画-米国日系人のお節料理=地元の食材ふんだんに-末次シェフが手ほどき

 華やかな日本文化を彩るものに、一年のスタートを祝い、もてなすおせち料理がある。特に、今年は新たな世紀の門出を喜び、腕によりをかけた料理の品々が食卓を飾っていることだろう。そこで今回は、シアトルの代表的な日本食レストラン「日光」のオーナーシェフを務める末次毅行(たけゆき)さんに、お正月の思い出とおせち料理について振り返ってもらった。

「古き良き正月とおせち料理の味」末次毅行さん記

 わが家のお雑煮のダシ汁は、日本屈指のかつお節の産地である枕崎市山川港を控えておりながら、かつお節を使わず煮干でダシ汁をとって澄まし仕立てで、かまぼこ、白菜、ほうれん草、里芋、もちは丸もちで焼き、ネギ、ニンジン、ゴボウが入っていた。子供のころは煮干のにおいが苦手だったが、もちやかまぼこが好物だったため、お雑煮はお代りをしたほどだった。紅白膾(なます)も程よい甘酢で、昆布巻きは普通だが、時折母が作ったフナの昆布巻きは絶品だった。数の子は高価な時期があったにもかかわらず、小生の好物のため、パクパク食べて母の口には入らなかったことを覚えている。後年、母がシアトルに滞在した折にごちそうして罪滅ぼしをした。
 小生は鹿児島県指宿(いぶすき)市の商家(みそ・しょうゆ製造業)に生まれ、少年時代(一九五○~六○年代)の正月三ヵ日は、少し朝寝坊ができたことと母のパーマのにおいを思い出す。南国とはいえ、冬は一人ひとりに小さな手あぶり火鉢が与えられ、客間に父母兄姉がそろい、新年のあいさつを交わした。そして、おとそに始まって、お重箱には、冷えた筑前煮、膾、数の子、昆布巻き、かまぼこ、卵焼き、焼き魚、ミカンの寒天寄せなどが、そこここに、おぜんに乗り食事が始まった。また、新調の学生服をもらえるのも正月と決まっていて、今に思えば戦後の物のない時代に、父母が子供たちに与えてくれたせめてものプレゼントだったように思う。
 元旦は、おせち料理を食べた後、登校し、校長先生や担任の先生に年賀のあいさつをした。午後からは、こま回しや竹馬、カッタ(メンコ)に打ち興じ、姉たちは羽子板で羽根つきをした。そして、正月の二日、三日は親せき回りで、ごちそうをたらふく食べたことが思い出される。しかし〝おふくろの味〟とはよく言ったもので、母の味を超す味に出合うことは少なかった。
 もともとわが家は、大正末期、祖父の代に、佐賀県から指宿温泉郷に移住し、父は郷里佐賀より母を迎えたため、母は言葉も通じぬ(方言の強い)地に永住することになった。まだ国鉄指宿線がない時代だ。従って明治生まれの母は、鹿児島の郷土料理豚骨料理(豚の角煮)の調理は苦手だったようで、子供のころ、友達の家のとは一味違っていた。特産のキビナゴ、新鮮な錦江湾(鹿児島湾)の小魚の刺身や煮つけ、つけ揚げ(薩摩揚げ)、カシワ(黄鶏)ご飯(炊き込み鶏御飯)程度が母の郷土料理だった。
 一度日本に帰った時、母の手料理を食し「アレッ、俺の味がする」と言ってしまったが、それは逆で、小生の味の中に母の味が生きているということだろう。戦後の田舎ではハイカラなおふくろで、「男が台所にいるとは情けない。外で木登りでもして来い」と言う厳格な父とは正反対の、情操教育のうまい母でもあった。
 東京、大阪、それにパリやアメリカで料理修行の後、一九七〇年の夏にシアトルに来た。冬は雨が多いが、これも梅雨(つゆ)と思えばよい。四季がはっきりして、気候風土が日本に似ていて、海産物、農産物が豊富で、水や空気もおいしい。海、山、河、湖など風光明美で、海外ではこれ以上望めないのではないだろうか。
 おせちに使う材料も安い数の子、子持ち昆布(数の子昆布)、イクラなどは加工産地が近いため、新鮮で十分使える。また、正月に欠かせぬ、ボイルされた頭付きのエビは、地元で水揚げされるしらすエビ、甘エビ(約十センチある)、フードキャナルシュリンプと呼ばれるエビを使えば、重箱に心地よく納まるので重宝がられる。
 晩秋に収穫したマツタケをキャラ蕗(ふき)のように甘辛く佃煮風に煮たり、マツタケをよく掃除して冷凍しておき、解凍後、お雑煮や吸い物に入れる。また、春に収穫したワラビの塩漬けを塩抜きした後、味付けし、油揚げを湯引きして開き、魚のすり身を開いた油揚げに塗り、ワラビを芯(しん)に巻いて蒸してからたいた「ワラビ信田巻」は早春の感じで、この辺が北米西北部シアトルのお正月・迎春料理とでも言える。
 七〇年から八〇年代の正月は、シアトルに親せき、知人もできたので、四、五軒の年始回りをすることになった。当時は、街の有力者の家や、コミュニティリーダーの家に集まり、おとそとごちそうの宴(うたげ)が開かれていた。客の多い家では、一日に百から百三十人。少ない家でも、四、五十人というから、おせち料理の量も半端じゃない。大きなタイの姿焼き(浜焼き)が出る家や、九谷焼、有田焼の大皿に、刺身や煮物を豪快に盛り、ナンテンの小枝や松飾を、粋(いき)にあしらって正月気分を演出する料理上手の奥さんもいた。
 森口貞子さん(ノースウエスト最大の日系食料品店、宇和島屋の森口富雄総帥の母堂)が現役で家事をしておられたころは、必ず年始に出掛け、〝おばさん〟自慢の塩ブリの切り身が入ったお雑煮をごちそうになったものだ。一度「おばさん、これはおいしい」と褒めたら、「板前さんに言われたらうれしい」と満腹の腹にお代りを勧められ、大変困ったことがあった。
 故蔦川ジョージさん(森口貞子さんの実弟で、噴水の彫刻家として世界的にも有名)も毎年同席して身近に酒を酌み交わし、裃(かみしも)を脱いで長老の話も聞けた。日ごろは近寄り難き人も、正月は心の囲いを解いてくれる。また、ある時は、長居して酔いつぶれ、私の妻子ともども泊まってしまったこともある。しかし、そんなことなど気兼ねしない付き合いが当時はあり、向う三軒両隣的な温かい気質のようなものを感じたものだった。
 現在、自分はあの人たちの年齢に達しようとしている。しかし今日、あのような宴を持てるだろうか。人々がわが家まで年始に集まって来てくれるであろうか。当時を振り返り「昔の人は偉かった。古き良き時代」と、片付けてよいものだろうか。年始客数の多少でなく、ごちそうの有る無しにかかわらず、年の初めは親せきや友人、善男善女が手料理を囲み、子供たちが騒ぐ雰囲気は捨て難いものだ。わずか十年ほど前の事であるが、自分たちの手で継承しなければならないとおせち料理を作るたびに考える。
 末次毅行さん(五六)は鹿児島県指宿市の出身。一九六三年、東京都立三鷹高校卒業後、大阪辻調理師学校に入学。六五年に同校卒業後、パリに料理留学し、六七年から米国で料理修行を開始。七六年からシアトル南の郊外で、「レストラン薩摩」を開業。九七年からシアトル・ダウンタウンのウェスティンホテル内に「日光レストラン」をオープンし、共同経営者兼シェフとして活躍。ワシントン州で唯一の日本料理マスター・シェフとして、アカデミーシェフ・アソシエーション(本部フロリダ)から称賛を受けている。また、日本調理師連合会からも調理師師範の称号を授与されている。九五年から九九年までは、米国日本料理協会会長を務めた。