越境する日本文化 カラオケ(4)=レーザーの映像で知る=日本の風景や風俗

2月21日(金)

 レーザーカラオケは、映像が流れる。ロケ地の風景や出演者の髪形や服装。それに、ストーリーも加わる。日本語、日本文化を知るために、カラオケを利用する人もいる。  ソロカバナ線のプレジデンテ・プルデンテ市から自動車で三十分のマルチノポリス市。同市でコンピューターのメンテナンスを営む林健児さん(五〇、二世)の自宅を訪ねた。
 レーザーカラオケ、ビデオケ、音響装置などカラオケ専用の部屋に、所狭しと積まれている。天井では、ミラーボールが回る。もともと、二部屋だった部屋の仕切りをはずして、十八平方メートルに拡張した。それでも機材を入れることが出来ず、居間にもスピーカーなどが並べられている。

 揺りかご時代から、機械いじりが好きだった。七〇年代の初め、地元の高校を卒業後、サンパウロ市に出て、親戚の元で電気の修理工として働いた。都会の生活には馴染めず、ホームシックにかかることもあった。
 従弟が藤圭子、青江三奈、ぴんから兄弟などを聞いていた。その影響で演歌に触れた。
 両親は準二世で勤勉、実直だった。「父親がバールで酒を飲む姿など見たことは無い」。多くの移住者と同様、苦労して八人の子供を育てた。父親がたまに、浪花節を口にするぐらいで、日本の歌を聞いたことは無かった。
 日本語学校に通い、両親が毎月、マンガをとってくれていたこともあり、日本語は堪能だ。サンパウロ市で演歌を聞いたときも、内容はすぐに理解できた。故郷を思う気持ちが歌に重なった。
 八十年代初めに、帰郷。電気、機械の修理店を開けた。と同時に、カラオケ機器の収集を始めた。毎日が仕事と家との往復。節約をして、少しずつそろえていった。スピーカーはすべて手作りだ。

 地元日本人会の青年部長を八二年から八四年まで務めたことから、友人を自宅に呼んでカラオケを楽しんだ。ロケ地の映像を見ながら、日本に思いを寄せた。日本とはどんな国なのか、よく、語り合っていた。
 渡伯後一度も里帰りしたことのない両親を訪日させたいと、八八年から八九年にかけて、出稼ぎで日本に向かった。バブルがはじける前で、高い収入を得、両親を呼ぶことができた。
 「一回は日本を見て来たほうが、よい」。帰国後、日系人の友人を集めては、訪日を勧めた。高度成長をとげて、豊かになった日本、街頭に立つ娼婦の姿……。両親から聞いた日本やカラオケの中の日本とは、ずいぶん異なる点があった。
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 マルチノポリスの人口は二万千三百人。七十家族ほどの日系人が暮らす。ここ最近は、混血が進み、日本人会の行事といっても、参加者は非日系人が多いくらい。
 林さんを将来、日本人会の会長に推す人もいる。
 そんな中、自宅とは道路一本隔てた所有地にカラオケサロンを建設中。完成すれば、各種行事に貸す予定だ。
 日本語や日本文化の普及のため、カラオケサロンが、一役買うことになるかもしれない。
     (古杉征己記者)

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