カルナヴァルと日系人(1)=「ボヘミアンな父でした」=日系初のサンビスタは戦前移民

2月22日(土)

 現在ではTV中継を見ていても二世、三世の顔があちこちに散見されるようになったサンパウロのカルナヴァル。それでも、演奏しているサンバのリズムが崩れると「Japones entrou no samba(ジャポネーズが入った)」と哄笑するサンビスタはまだいる。ブラジル社会の中でも、特に黒人文化の影響を色濃く残し、伝統を重んじるサンバ関係者にとって、もともと日系人は身近な人々ではなかった。移民側からもそうだ、と思っていた。しかし、歴史の奥底には意外な接点が潜んでいた。日本移民九十周年を迎えた九八年には、サンパウロ最強のエスコーラ(サンバ学校)の一つ、ヴァイ・ヴァイが〃日本〃をテーマにして見事優勝したことは記憶に新しい。その間には、お互いを理解しあうための、様々な試みがあった。日系人が踊るサンバには、どんな想いが込められていたのか。カルナヴァルを通して見た、日系人とブラジル社会との関わりを本連載では追ってみた。

【ラヴァペス】
「ボヘミアンな父でした」
日系初のサンビスタは戦前移民

★日系初のサンビスタ★
 「ジョアン・ジャポネース――。やつが日本人で最初のサンビスタだ。あの当時、日本人でエスコーラに入ってくるようなのは、他にいなかった。彼はクイッカやタンボリンが上手かった」。サンバ界の生き字引ともいわれる、エヴァリスト・デ・カルヴァーリョ(七二)さんは証言する。
 エヴァリストさんはレージ・ナショナル・デ・サンバというラジオ番組を二十二年間続けており、かつてはカルナヴァル時期以外にテレビやラジオで扱われることのなかった大衆音楽サンバを、現在の地位に引き上げた功労者だ。
 ジョアン・ジャポネースこと山本マサヨシさんは、娘のトゥーリア(二世、四二)さんに言わせると「本当のBoemio(ボヘミアン=自由奔放な暮らしをする人)で、サンバをやりに行くと朝まで帰ってこない人だった」と述懐する。どれほどボヘミアンかといえば、実の娘でさえ、父の生年月日や渡伯年はおろか死亡年月日が分からないほど。破天荒、型破りな移民だったようだ。
★黒人コミュニティへ★
 「父がエスコーラに通いはじめたのは戦争中だったと聞いてます」。『サンパウロのエスコーラ・デ・サンバ』(一九七八年、77P ※1)には「六七年以前、サンパウロのエスコーラは、ほぼ全てが貧困層である黒人やムラート(黒人とブラジル人の混血)によって占められていた」とある。
 「当時の黒人コミュニティは閉鎖的で、地元育ちでも非黒人はなかなか仲間として認められないくらいでした。まして、父は日本で生まれたよそ者。認められるまでは時間がかかっただろうと思います」
 トゥーリアさんが生まれたのは一九六〇年。「私が五歳ぐらいの時には、ラヴァペス、ヴァイ・ヴァイ、インペーリオ・ド・カンブシなどいろいろなエスコーラに連れて行ってもらったのを憶えています」。その頃には、サンパウロのサンバ界では知られた存在になっていた。
★リベルダーデにあるサンパウロ市最古のエスコーラ★
 当時、リベルダーデに住んでいたマサヨシさんは、ラヴァペスでサンバを習いはじめた。このエスコーラは現存するサンパウロ最古の団体で、一九三七年に創立された。五〇年代のラヴァペスは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。カルナヴァルのチャンピオン歴代リストを見ると、ラヴァペスが五〇年、五一年、五二年、五三年と四年連続優勝している。
 五〇年代のカルナヴァルの舞台はサンジョアン大通りやアニャンガバウーだったが「子どもの頃は、グローリア街でもパレードをやっていました」と思い出す。
 マサヨシさんがクイッカを習ったのは、サンパウロを代表する名サンビスタの一人〃オズワルジーニョ・ダ・クイッカ〃からだった。「六五年頃、父はオズワルジーニョと一緒に、よくショーをやっていました」。
 「父は六歳で親と共に渡伯してきた」というトゥーリアさんの記憶と、彼女が六〇年に生まれたことを考え合わせれば、山本さんは戦前移民と考えられる。戦後最初の移住が五三年一月だから、その時、六歳なら十三歳の時に父親になったことになる。やはり、最後の戦前移住である四一年八月以前に来ていたと考える方がむりがない。
★妻はピアウイ出身★
 彼女の母は北東伯のピアウイ州出身のブラジル人で、アクリマソン区で働いていた時にマサヨシさんと出会い、結婚した。しかしトゥーリアさんが生まれた数年後、離婚してしまった。「父があまりにボヘミアンだったので、母があいそをつかしてしまったんです」という。彼女は弟と共に母に引き取られ、隣のベラ・ヴィスタ区で育った。
 彼女が十四歳の時、マサヨシさんはグアルジャに引越し、別の黒人女性と同棲生活を始めた。「あっちでもサンバ三昧の生活をしていたようです」。以来、疎遠になり「四、五年前に亡くなったそうです。あちらの家族が接触を嫌がって、死んでしばらくしてから教えてくれました」。
★ボヘミアンな父を尊敬する娘★
 現在でさえ、リベルダーデの周辺では「黒人と結婚した人は日本人コロニアには入れない」という。まして、戦中、戦後の時期であればなおさらだったであろう。「父が母と結婚した時は、父方の親類から総反対されたと聞いてます。当時のエスコーラは黒人ばかりが集まるところと、日本人は敬遠していました」。
 彼女はヴァイ・ヴァイのお膝元のベラ・ヴィスタで育つ。「私のコラソン(心)はヴァイ・ヴァイです」。四年前から同エスコーラの作曲家グループにも入っている。
 「私は父のことをとても誇りに思っています。どこのエスコーラへいっても、ヴェーリャ・グアルダ(一線を退いたベテラン隊)の人たちはみな、父のことを知っている。でも、私の子どもはそれほどサンバに情熱を感じてくれないみたいで、ちょっと残念なんですけど」
 父の血筋を強くひき、心からサンバを愛してきた彼女らしい言葉だ。四十歳の弟と、二十五歳の娘は現在デカセギ中――。
 ■型破りな移民■
 戦前移民がサンパウロ市最古のエスコーラで、日系初のサンビスタに――。娘に「父はボヘミアン」と呼ばれ、生年月日すら定かでない。リベルダーデの黒人コミュニティに入り込み、寝食を忘れてサンバ三昧の日々を送っていたとは、隠れた移民史の一幕だ。
    (深沢正雪記者)
※1=『Escolas de Samba de Sao Paulo (Capital)』(Wilson Rodrigues de Moraes著、Conseho Estadual de Artes e Ciencias Humanas)

■カルナヴァルと日系人(1)=「ボヘミアンな父でした」=日系初のサンビスタは戦前移民

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