「縁」を新たにさせた=汎米日語教師研修会=ドミニカ―ブラジル、日本―ブラジル結ぶ=親戚との対面や恩師生徒の再会

2月25日(火)

 日本語普及センター(谷広海理事長)主催の汎米日本語教師合同研修会が四日から十三日まで開かれ、カナダ、メキシコ、アルゼンチンなど十カ国から四十人が参加した。期間中、音信不通だった親戚との対面、恩師と生徒との再会という涙を誘う場面もあった。
 ドミニカ・サント・ドミンゴ市の研修員、瀬藤弓子さん(二六)は十日午前、サンパウロ市ジャバクアラ区ブリチス通りの電話ボックスに立った。
 祖母シカヨさん(八一、広島県出身)の従姉妹、三崎かずこさん(七九、同県出身)とは八九年から、連絡を取り合っていない。受け入れてくれるかーー。
 かずこさんは家庭の事情で生まれて間もなく、母方の実家に預けられた。シカヨさんは祖母と同居、二人は姉妹のように育った。
 かずこさんは、「気がやさしくて几帳面。かわいがってくれた」と、二つちがいの〃姉〃を慕った。
 戦後、シカヨさんがドミニカに移住することになり、「なぜ」と、涙を流した。
 その後、かずこさんは渡伯。二人は文通で互いの生活を伝え合った。「日々の細かいことまで書いた」。
 それが八九年を境に途絶した。両国の郵便事情の問題から、発送した手紙が返ってきたのだ。かずこさんは心配になり、日本の親戚に連絡を入れたが、はっきりした返答は無かった。
 それから十三年余り。「健康で暮らしているのか」、「不幸があったのではないか」と様々な思いが二人の胸を交錯した。
 弓子さんは、乳児のころ、かずこさんに会ったことがある。が、記憶は無い。八九年の手紙に記されてある住所と電話番号を手掛かりに、普及センターに協力を求め、テレフォニカに照会、連絡先を調べた。 弓子さんは、おそるおそるダイヤルを回した。「よう、来たねー」と、受話器の向こうから、祖母と同じ広島弁が聞こえて来た。
 かずこさんの自宅は電話ボックスの向かいだった。
この日はちょうど、夫、清司さん(老ク連元会長)の一周忌の前日。仏壇を前に積もる話は尽きなかった。
   ×   ×    
 「これ先生だ」─。松井セルジオさん(四二)は現像した写真をみて、絶句した。即座に、普及センターに電話、塩崎紀子早稲田大学日本語教育研究センター講師(四九)が来伯中なのか、確かめた。
 普及センターはこの日たまたま、松井さんの写真店に現像を依頼した。問い合わせ内容に驚いた。
 松井さんは八九年、長崎の水産大学で研修した。研修前に、JICA東京インターナショナルセンターで日本語の授業を受けた。その時の講師が塩崎さんだ。
 塩崎講師にとって、松井さんは忘れられない生徒だった。JICAの高官を前に、「豊かな日本は、貧しい国を援助しなければならない」と、言ったからだ。「自立した青年だ」と、印象は深く残った。
 以来、十四年ぶり。塩崎は松井さんに駆け寄り、抱き合って再会を喜んだ。アルバムを見ながら、「生意気な口をきく生徒だった」、「楽しいクラスだった」などと、思い出話に花を咲かせた。