越境する日本文化 舞踏(1)=身体芸術日本生れ=振り付け家の楠野さん導入

3月14日(金)

 「ブラジルの踊りは動きの集中力のようなものに欠けているのが分かった」
 リオから参加したダンサーのステラ・クルスさんはそう言って汗を拭った。
 今年一月、サンパウロ日本文化センターで行われた能のワークショップ。宝生流の佐野萌(はじめ)さんは、すり足に重点を置いて指導した。
 別の参加者は「サンバのステップは五時間でも出来るが、すり足はとても無理」。そんな言葉さえ聞こえてきた。

 振り付け家楠野隆夫さんが亡くなって今月で二年ーー。「身体の権威」、「ブラジルのダンス界は偉大な師匠を失った」。エスタド紙はその死を大きく報じた。衝撃だった。
 晩年の楠野さんを手伝った松家ヒデキさん(建築家、大学教授)は「彼はいつでも練習の際にすり足を命じていた」と思い出す。最低一時間は割いた。ダンサーたちは大汗をかいた。
 地面に浮く感覚で、重心が落ちている姿勢を保て。楠野さんがダンサーに対し、執拗に求めたものだ。
 ただ、クラシック・バレエやジャズ・ダンスで鍛練を積んできたダンサーたちも、すり足には音を上げた。これまでの身体感覚では順応し切れなかった。
 どうしても姿が決まらないときには「鍬を持たせて土を耕す訓練までさせた」という。農耕民族の身体感覚の習得。端的に言えば、狙いはそこにあった。 
 サンパウロ・カトリック大学のクリスチネ・グレイネル教授(身体芸術学)は楠野さんを、「この国にはなかった身体の可能性を持ち込んだ人物」と評する。
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 楠野さんが自分の作品を称して、舞踏と呼ぶことはついぞなかった。しかし、メディアはそう見做していた節が強い。
 舞踏という日本生まれの新たな身体芸術が欧州で認識され始めたのは八〇年。フランス・ナンシーの舞台芸術祭に大野一雄と山海塾が参加したことがきっかけとなった。浮世絵以来の文化的インパクトを与えた。
 ブラジルは楠野さんが制作・演出した「コルポ1」で一足早く七八年に、「舞踏」元年を迎えている。
 「ずいぶんと早くから伝わっていたのですね」
 九九年に来伯した舞踏研究家の国吉和子・早稲田大学教授もこれには驚いた。
 ダンスというのは単に音 楽に合わせた体の表現で はない
 楠野さんが打ち出した「もっと肉体の根源から生まれてくる芸術」に対し、サンパウロ芸術批評家連盟(APCA)はその年、最優秀舞台監督賞を贈る。移住一年目の快挙だった。
 兄で画家の友繁さんには「名が通ったダンス演劇界の人たちが続々と見に来ていた」印象が残る。なかに、アンツネス・フィリョがいたのを覚えている。
 アンツネスは同年、ブラジル演劇の金字塔となる「マクナイマ」を発表した。「タカオさんの舞台に相当影響された場面があった」と見るのは松家さん。白塗り裸の役者たち、その歩き方。よく似ていた。
 グレイネル教授はいう。「彼が残した仕事に触発されたのは演出家だけでない。ダンサーには日本まで舞踏を学びに行くことを決心させた」。マウラ・バイヨーキ、マルタ・ソアレス、リジア・ベルヂ……。「学者ですが、わたしもですね」。舞踏研究のための訪日は二回を数える。
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 ブラジルを代表する舞踏家に、ドイツを拠点に活躍するイズマエル・イヴォがいる。彼が上り詰めた檜舞台への階段も楠野さんが用意した、と言っていい。本人も「身体表現はタカオに学んだ」が口癖だ。 
 イズマエルは〇一年七月、凱旋帰国。パリから訪れていたヨシ・オオイダと共演する。オオイダは日本で能など古典芸能を学んだ後に渡欧、演劇界の大御所ピーター・ブルックの片腕として名を成した役者だ。
 この二人舞台。エスタド紙はイズマエルが黒人であることを踏まえて、「能とカンドブレ」と洒落た。
 しかし、本質は別のところにあった。越境しブラジルに交差した「日本の身体性」。それはまた楠野さんなくしてはあり得なかった歴史のワンシーンだった。
     (小林大祐記者)

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