セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(5)=コチア参産組入植呼びかけ=サンゴタルド モデルケースに

4月16日(水)

 カルモ・ド・パラナイーバから八十キロ。一行はこの旅最後の訪問地、サンゴタルドに到着した。
 ふるさと巡りの旅行中、行く先々で「コチア」の名を耳にした。
 パラカツ、ピラポーラ。そしてサンゴタルド。ふるさと巡りの一行が訪れたこの地こそ、コチア産組が手がけたセラード開発事業の始まりだった。
 一九七三年、コチア産組はミナス州政府のアルト・パラナイーバ開発計画(PADAP)への参加呼びかけに応じ、セラード開発に参加した。日伯両国による開発事業が始まる前のことだ。組合はサンゴタルドに事業所を設置。以後、セラード開発のモデルケースとして同地への入植が始まる。
 入植開始は七四年。二万五千ヘクタールの土地に、パラナ州を中心に組合員とその子弟が入植した。最初に入った七十家族のほとんどが日系人だったという。「最初は土地の質も分らない。データもない。四、五年は試行錯誤の連続でしたよ」と、同地のコチア青年の一人、田中義文さん(六二)は当時の様子を語る。
 石灰で酸性の土壌を改良。八〇年ごろから大豆、小麦の生産が始まる。現在はニンニクや玉ねぎなどの野菜類、アバカテなどの果樹も栽培している。一ロッテの広さは約五百ヘクタール。全体の面積は五万ヘクタールまで拡大した。
 一行の到着後、会館では先没者の慰霊法要が営まれた。導師はブラジリアでも世話になった、ブラジリア南米本願寺の杉浦開教使。サンゴタルドまで出張していた。読経、焼香を終え、昼食会に移る。
 今回のふるさと巡りには、四人のコチア青年が参加していた。そして、サンゴタルドにも。
 最初に同地に入植した九人のコチア青年のうち、今は四人が同地に暮らす。この日は田中さんのほか、青柳忠明さん(六一)と川原嘉門さん(六六)の三人が会場に来ていた。テーブルを囲んで昔話がはずむ。「土地は悪そうだけど、地形はよかった。改良すれば行けそうだと思いました」と川原さん。同地での成功が、その後のセラード開発推進につながっていく。
 現在、サンゴタルドには約百の日系家族が住む。文協の会員は六十家族。来年、創立三十周年を迎える。かつては野球の強豪として鳴らしたが、子供たちが進学などで町を離れたこともあり、現在は行なっていないという。今年二月から文協会長を務める渡辺ジョルジさん(四八)は「これからは若い人にも立ってもらって、年輩の人と一緒に活動を盛り上げていきたい」と抱負を語る。
 昼食後、一行はバスに乗りこみ、同地の日系農家の畑を見学した。ミクロ・アプレソールと呼ばれる、地下から水を送る灌漑設備を使ったアテモイア畑。円形の広大な畑ではニンニクの作付けが始まっていた。
 直径五百メートルのピボー・セントラルを横目に、バスはゆっくりと畑の中を進んでいく。遠くから雨雲が迫ってくる。やがて大粒の雨がバスの窓を叩きはじめた。
 コチア産組の解散後、同地の組合は「アルト・パラナイーバ農業共同組合」として活動している。現在の組合員は約七十人。
 バスが組合倉庫の前を通りすぎる。その説明をしながら、田中さんが語った。「コチアがあったからこそ、今の自分たちがある。入植当時はみんな夢中で、苦労を苦労と思わなかった。最初はこんな所に住めるかなと思ったけど、今はいい所だと思いますよ」。会館に到着した。気がつくと雨はやんでいた。
 「ふるさと」の合唱。渡辺会長は「日本の習慣や伝統を守る上で貴重な体験でした」と述べ、来訪を謝した。一行はサンゴタルドを後にした。
 車窓から外の風景を眺める。視界一面に広がる畑。収穫作業だろうか、遠くでは三台の大型機械が作業を続けていた。夕暮れが迫る。雲では覆いきれない太陽の光が、緑の大地を照らしていた。
(つづく・松田正生記者)

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