ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(3)=「目立たぬように―」=1940年暴動 覚めやらぬ恐怖

4月25日(金)

 ペルーにおける日系移民の歴史は、ブラジルに先立つこと九年前の一八九九年、第一回移民船「佐倉丸」に乗り込んだ七百九十人によって始まっている。
 初期ペルー移民の多くが風土病に倒れ、また異なった環境で悲惨な耕地生活を送ったことは『在ペルー邦人七十五年の歴史』(ペルー新報社)などに詳しい。
 様々な迫害や差別を乗り越えながら理髪店を中心にペルー社会で活躍し始めた日本人に〝経済的脅威〟を感じ始めていたペルー社会は、偏見も手伝ってか排日気運が高まっていた。
 そんな折、日本人同士のトラブルに巻き込まれたペルー婦人が亡くなったことが騒動の発端となり、大暴動が起きる。ペルーの日系人にとって忘れられない日となる、一九四〇年五月十三日―。
 騒動は全リマ市内に飛び火し、日本人経営の商店や理髪店などは「床の板まで剥がされた」ほどの徹底的な略奪の対象となった。
 添田実さん(当時七歳)は暴動の際、「近くに住んでいた日本人の奥さんの『助けてー』という声が聞こえた時は本当に怖かった」と当時を振り返る。
 「被害に遭った日本人は里馬(リマ)小学校に非難してきてね。みんな、財産を全部なくして着のみ着のままでしたよ。うちの両親は『こんな国に子供を置いとけん』ゆうてね、私ら兄弟を日本に帰したんですよ」
 在ペルー日本領事館は「略奪の被害のため、再起不能」と判断した五十四家族三百十六人を、約二カ月後の七月十六日に平洋丸で日本へ帰国させる処置を取っている。  
 その平洋丸に兄と乗船した添田さんが両親と再開できるのは、戦争を挟んだ一九五七年、二十五歳の時であった。
 暴動の興奮冷めやらぬ同月二十四日、被害が大規模に及ぶ地震がリマを襲った。ペルー社会の中で脅えながら暮らしていた日本人は「これで反日感情が少しでも薄れるのでは」と天災を天恵と受け取り、安堵したー、という。この暴動が日本人社会に与えた動揺の大きさを伝えるエピソードである。
 この暴動事件は、戦時中の不動産の没収や資産凍結、米国の強制収容所への連行などの日本人に対して行なわれた迫害と共に、半世紀を超えた現在でも日系社会に暗い影を落としている。
 当時、子供であった多くの二世は証言する。「あれ以来、我々日系人は目立たぬように心がけてきたし、そういう教育を受けてきた」
 多くの一世や二世の脳裏に焼き付いている日本人排斥の歴史。その記憶は三世、四世に語り継がれることにより、今では世代を超えたトラウマとなり、ペルー日系社会の性質を形成するに上で大きな影響を与えている。
 ペルーにおける非日系人との結婚の割合がブラジルと比較して、極端に低い事実や日系人関係の施設の充実ぶりなどが、ペルーの日系人全体の性格を象徴しているような気がしてならない。
 目立たぬように、目立たぬようにー。それがペルー社会の中で生きていかねばならなかった日系人の処世術だった。
 ペルー日系人協会の会長を二期務め、ペルー日系社会を代表する一人でもある丸井ヘラルド氏は証言する。
 「だからフジモリが大統領選に出馬した時、日系人の誰もが反対したんだ」
    (堀江剛史記者)

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