―自然への回帰―奮闘する日系助産婦たち(上)=家庭的な雰囲気の中で=「毎回、感動して涙が」

6月11日(水)

 女性にとっての一大イベント、出産――。この世に命が授かる瞬間は感動的だ。女性は分娩による痛みを通して、母親の自覚を持つといわれているが、現在、ブラジルでは自然分娩よりも、帝王切開による出産が大きな比率を占めている。果たして、自然分娩は痛く、恐ろしく、避けたくなるものなのだろうか。出産現場で奮闘する日系助産婦、分娩のあり方、新たな取り組みなど三回にわたり追ってみた。

 カーザ・デ・パルト・デ・サポペンバ

 サポペンバ助産院――。玄関ホールを抜けると、美味しそうな食べ物の香りが漂う。壁には写真が貼ってあり、個室部屋の入口には手製の飾りがかかっている。病院特有の消毒液の匂いはない。友だちの家に遊びに来たような錯覚におちいる。
 「産婦さんが、くつろげる環境のなかでお産をすることが大切」。これがカーザのモットーだ。責任者は日系のマチウダ・ムタさん。彼女のもと、ここで働く日系のヴィルマ・ニシさん、マリア・ナカシマさん、イズミ・カワモリタさんとブラジル人のアルジェン・オルチスさんの笑顔は輝いている。
 このカーザで五月十九日、男の子ミゲルくんを産んだサポペンバ区在住、サンドラ・アサダ・カセレスさん(二二)は、「病院は毎回、先生や看護婦が変わって距離がある感じ。でも、ここは対応が全然違う。とても家庭的なの」。隣では、チリ人の夫、マルコ・アントニオ・カセレスさん(二三)が微笑んでいる。

 家族の一員として

 サンドラさんは三人の子どもを育てている。一人目は病院で産まれた。口コミでカーザの存在を知り、二人目のエドゥアルドくんの時、カーザでの出産に挑戦。いつ産まれるか、冷や冷やしながら、十日もの間、自宅とカーザを行ったり来たりしたという。「カーザのみなさんに顔を覚えてもらえて、もう家族の一員みたい」。三人目のミゲルくんも、カーザで産もうと以前から決めていた。
 エドゥアルドくんとミゲルくんをとりあげたマリアさんは、「赤ちゃんが泣いて、お母さんが泣いて、お父さんが泣いて、それから、みんなが泣くの」。まるで、昨日のことのように思い出して目頭を熱くする。
 現在、カーザでは一ヵ月に四十五から五十の赤ちゃんが誕生している。助産婦たちは、「お母さんが直接、出産する感覚をつかむこと、それを自分が手伝っていると思うと、毎回、感動して泣いちゃうの」と語る。

 カーザの仕組み

 サポペンバ助産院は一九九八年九月十八日、サンパウロ州の家族保健事業(プログラマ・ダ・サウーデ・ダ・ファミリア=PSF―クアーリス・スデステ)の一環として始まった。運営機関はゼルビニ財団。すべての分娩は産科分野で経験の長い助産婦によって行なわれ、医師はいない。
 産婦は三十七週目まで医師の診察を受け、異常がない人のみがカーザに受け入れられる。以後は週一回の検診が行なわれるが、無駄な検査はしない。カーザは、産婦とその家族にカーザのシステムと産婦の生理上経緯、新生児の育児法などをとくとくと説明する。その間、産婦と助産婦はより親密になる。この親近感が出産前の高血圧や出血など体の異常を発見しやすくする。何かあれば、すぐ、サンパウロ州立ヴィラ・アウピーナ病院やアンパロ・マテルナル病院に連絡が入り、適切な対処ができるという。
 出産時は寛大な措置が施され、通常は歓迎されない付き添い人や風呂、歩行、マッサージは助産婦らの細心の配慮のもと励行される。体位も、側臥位や座位、四つんばい、立位など産婦が楽と思う姿勢でいい。母子は、十二時間後に退院が可能。その後、二十四時間以内に保健所から自宅に訪問があり、常に母子を見守る仕組みとなっている。
(門脇さおり記者)

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