日伯両国で徴兵された菅さん=保存されている「赤紙」=終戦直前、山口で=帰国後は義務兵役

6月12日(木)

 カーザ・ポルトガル(サンパウロ市リベルダーデ区)の真向かいに日系人経営のガラス細工の販売店が店を構える。陸軍からの召集令状が額に入れられて、大切に保存されている。ブラジル軍のものではなく、日本軍の発行した〃赤紙〃だ。持ち主の菅貫太さん(二世、七七)は幼いころ、学問を積むため、父祖の国に向かった。太平洋戦争が一九四一年に勃発、終戦間際に徴兵された。
 身長は百六十五センチだが、がっしりとした体格で身長以上に大柄に見える。相手を威圧するような鋭い視線に、初対面の人はひるんでしまうだろう。
 一九二六年生まれ。両親はサンパウロ市サンタセシリア区で家具の製造販売を生業としていた。
 日本人の子だから日本で勉強させたいと、父親が強く希望。三六年、姉(当時十一歳)と二人で山口県豊浦郡豊北町の祖父母の元に移った。翌年、日中戦争が開戦した。
 十歳だったが、日本語が片言しか話せなかったため、尋常小学校二年に編入することになった。級友からは〃外人〃と呼ばれ、イジメも受けたという。
 「通信簿も『番外』とされ、正式な生徒とは認められていなかった」。
 ブラジル生まれだったこともあり、日本の戸籍に入っていなかった。
 軍国主義が深まっていく中、〃外人〃に対する世間の風当たりも強くなるばかり。四三年に入籍、はれて〃日本人〃になった。
 と同時に、兵役義務も負うことに。そして、四五年七月に、召集令状が届いた。広島市中國第一二一部隊への入隊が決まった。
 部隊への到着指定日時は八月十七日十四時。が、原子爆弾が同月六日に、広島市に投下され、入隊二日前の十五日、終戦を迎えた。
 戦地に赴くことはなかったものの、緊急呼び出しがあり広島市で救援作業に当たった。
 戦後、間もなく帰国した。ブラジルでの徴兵年齢に達していたので、軍務についた。
 ポルトガル語をほとんど忘れており、国歌すら歌えなかった。将校に咎められて、強制的に覚えさせられた。
 「旧制中学で、上級生は下級生に暴力を振うし、将校が学校に来ては、行進の仕方や銃の使い方を指導した。日本の学校の方が厳しかった」。
 両親とは、十四年ぶりの再会だった。太平洋戦争で、ブラジルは連合国側につき、日本と国交を断絶した。そのため、両親との音信は途絶えていた。
 徴兵されたことについて、「特に考えもしなかった」と、振り返るだけで、多くを語らない。
 寡黙を貫くだけに、ブラジル日系二世として、複雑な思いがあったように思えてならない。