「日本移民の日」法定から27年=議案上程した救仁郷さん=「大和魂を死ぬまで持ち続けるつもり」

6月18日(水)

 「ブラジル日本移民の日を制定する」ー。PROJETO DE LEI N2870が七六年、国会で成立。移住者の足跡が法定化によってきっちりとブラジル史に刻まれた。議案を持ち込んだのは、救仁郷靖憲元連邦下院議員(二世、七〇)。「私はブラジル生まれだけど、日本人よりも日本人。大和魂を死ぬまで持ち続けるつもり」。同氏は自分をサムライだ、と自負する。
 第一回笠戸丸移民が入った一九〇八年、農業移民の内訳は七七・九%が雇用農、一二・六%が借地農で自作農はわずか九・五%だった。
 移民七十周年を二年後に控えた七六年になると、この割合は完全に逆転。七三・一%が自作農、二四・七%が借地農、二・二%が雇用農となった。二世は政治、経済をはじめ各界に進出、躍進をとげた。
 日系議員は当時、六人いた。うち五人が与党に入っていたのに対し、救仁郷氏だけが唯一、野党(MDB)に所属していた。
 日系人八十万人(当時)を代表して先駆者に敬意を表したいと、救仁郷氏は移民の日の制定を発案した。
 ブラジル外務省や日本大使館などで資料を収集。半年かかって、法案を作成した。
 「日本移民の日を制定する。毎年六月十八日に、祝われる」(第一条)。発効の期日などに関する条項を含めて、法文は三条だけ。
 「反対議員は特に現れず、すんなり可決された」(救仁郷氏)。
 ほかのコミュニティー出身の議員も賛同。七八年に、救仁郷案に修正が加えられ、六月十八日がブラジルの移民の日と定められた。
 聖市リベルダーデ区に事務所を持つ。室内に入るとまず、「五七の桐」の家紋が目に飛び込んでくる。別室には、大小二本の日本刀が飾ってある。薩摩藩の士族の家系に生まれた。侍の子だ。
 一九三三年生まれ。七十歳。父、十憲氏は一九三二年に、夫婦で移住。四九年ごろには、現地人数十人を使って、パライゾ市で綿作をしていた。
 十憲氏は軍人出身で戦後、臣道連盟の副支部長まで務めた。五〇年に病死した。救仁郷氏は母とおばに育てられることになった。
 大学でイタリア系の恋人ができ、結婚を望んだ。母は、「毒を飲んで二人で死のう。うちは士族の家だというのを忘れたのですか」と、言ったという。
 救仁郷氏は結婚をあきらめ、日本人の妻を迎えた。「日本人だから、日本人と一緒になるほうがよかった」と語り、後悔はない。
 五年後に控えた移住百周年について、「私は一線を退いた身だから意見は申しません」と、口を閉ざす。
 弁論大会の録画ビデオを鑑賞しながらもらす。「世代交代が進むにつれて、日系人は日本語を話さなくなった」。