本紙記者がのぞいた=亜国日系社会は今―4―アナウンサー・俳優・編集長=三足のわらじ 高木さん=健啖と饒舌は老いを知らず

7月1日(火)

「ラプラタ報知」の高木一臣編集長

「ラプラタ報知」の高木一臣編集長

 「忙しいから、三時間しか寝ないですよ。でも居眠りも多いから五時間は寝てるかな」と高笑い。
 アルゼンチン唯一の邦字紙「らぷらた報知」の名物編集長、高木一臣氏(七八歳)である。
 その健啖と饒舌は老いを知る事なく、隻眼となっても日系社会に厳しく、優しい視線を送り続けている。
 平日は朝の五時から、国立放送局対外放送部のアナウンサーとして、アルゼンチンの情報を日本へ発信し続け、約四十年。
 そして六十歳の時から俳優としても活躍、東洋マフィアの親分から、花屋までこなし、「テレビに出ていませんか」と街で聞かれることもしばしば。アルゼンチン俳優協会のメンバーでもある。
 三足のわらじを履く生活を続ける高木さんだが、
 「何が本職なのか、と聞かれればやはり新聞記者なんでしょうね」

 一九五一年六月に「星光丸」で来亜した。満州帰りの二十六歳だった。
 海外雄飛の野望を抱いて、というわけではなく「外国で何か見てやろうといった軽い気持ち」だった、と当時を振り返る。
 アルゼンチンに来たのも、当時同国が外国人に門戸を開いていた、というだけで、他の国でもよかった。
 「まあ、タンゴの国くらいは知ってましたけど」 
 在亜日系人の代表的職業である洗濯屋に間借りさせてもらいながら、仕事を探した。
 三十分で辞めた花屋、「日本人は信用できる」というオーナーに気に入られ、言葉も分からずマネージャーを務めた建築資材屋、「現地採用をバカにするな」と辞表を叩きつけた日系商社ー。
 仕事を変える間に学校に通って身につけた西語が身を助けた。新聞広告で見た「対日本ラジオ放送の翻訳、アナウンサー募集」に応募し、採用される。
 当初、仕事は夜だけだったので、アルバイト感覚で「らぷらた報知」に入社したのがコロニア新聞人としてのスタートだった。
 しかし、当初から事は簡単ではなかった。入社前日、電話で話した当時の編集長が出社したら、亡くなっていた。   
 「びっくりしましたよね。でも、編集長の代役に社長(初代、平良賢夫)が僕を指名したのには、再度びっくりですよ」
 「私の何が平良社長の目に止まったのだろう」と高木さんは今でも首を傾げるが、もちろん社内は紛糾した。十年以上も務め、自他共に次期編集長と目される人ももちろんいた。
 「その人がね、ある日系航空会社の支社長にインタビューするのに、その家族まで呼んで接待したんですよ。それがまた大金でね」
 平良社長は激怒した。会社としてそんな金は出せない。無断で勝手なことをするなー。
 「編集長が誰かを接待するのに、何の遠慮がいるのか」と抗弁したのに対し、「お前を編集長にした覚えはない」と、社長は怒鳴りつけた。
 激高した彼は社長を殴った。もちろん即刻クビ。 
 「それでまた私にお鉢が回ってきた、というわけでね」と高木さんは笑う。
   (堀江剛史記者)

 

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