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〝評価ゼロ〝の土地で=生き抜いて来た長州人―南マ州バルゼア・アレグレー=水害絶えなかった粟野村=いま過疎、昔の資料なく

7月11日(金)

 粟野村は現在、豊北町に合併されている。山口県の西北の隅に位置、油谷湾に臨む。フグ、タイ、トビウオなど海の幸に恵まれた小さな漁村だ。
 豊北町の人口は一万三千百二十四人(二〇〇〇年)。バルゼアへの移住が始まる四年前(一九五五年)には、二万八千百四十八人だった。過疎化が年々、進んでいる。
 町役場にはもう、五〇年代末の粟野に関する資料は残っていないという。ブラジル移住ついてはなおさらのことだろう。
 「調べてみたけど特に、何もありません」(豊北町役場)と、知る手掛かりすらなさそうだ。
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 明治・大正長州北浦風俗繪巻(一九七六)によると、毎年秋に、氏神祭り(粟野村)が行われ、多くの村人で賑わった。
 境内には、金物屋、小間物屋、菓子屋、玩具屋などが並んだ。
 村人は生活や仕事に必要なものを買うことが多かった。子供は小遣いをもらって好きなものを手に入れ、全く解放された一日だった。
 しかし、村人の出稼ぎが盛んになってからは店もあまり出なくなった。
 粟野祭りついて、坂井正義さん(=バルゼア・アレグレ移住地村長、六三)は、「子供にとっては本当に、待ちに待った日でした。露店を回るのが楽しみでね」と、青少年時代の思い出を語る。
 「各部落が毎年、持ち回りで何かやった」と、各自の記憶が一致する。
 ブラジルでは部落が家庭に置きかわったような形で祭りが継承されていた。
 「故郷はかけがえのないものだから、大切に思っています」。集まった人たちの声に力がこもる。
 初めての里帰りは、七四年四月。女性を主体にした十三人が祖国の土を踏んだのだった。第一陣の移住後、十五年が経過していた。 
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 金崎九郎さん(故人)は渡伯前、米作農家だった。太平洋戦争中(一九四一─四五)には、シンガポールに出征した。
 戦地では、負傷兵の輸血に当たるなど救援活動に携わった。復員後も農業を続けた。
 当時の粟野村では、毎年のように水害が発生。粟野橋三十メートルが決壊する(四四年)など甚大な被害をもたらし、住民の悩みの種になっていた。
 金崎家も例外ではなかった。妻のよし子さん(八四)は、「汚い水が床下まで浸水して大変でした。赤痢菌に伝染して亡くなる人も多くてね」と、回想する。
 九郎さんは、相沢忠貫さん(故人)に誘われてブラジル移住を決意。田畑を売り払って、携行資金を工面した。
 「うちは男の子が多かったから、主人は一旗あげられると思った」。
 地元の農協で役職についていたこともあり、八幡様の太夫、広田正文さん(故人)とは顔見知りでよく、碁を打っていた。
 息子、英司さん(=産業組合理事長、六五)の日置農業高校時代の恩師でもあった。
 海外へ移住すると聞いて、広田さんは御神体を分祀すると、申し出た。つづく。  (古杉征己記者)

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