朝川甚三郎不運の半生―終―晩年の最も幸福な一日―教え子たちが慰問に来た

9月27日(土)

 二〇〇二年六月十六日。朝川は朝早くからそわそわして気が落ち着かなかった。朝食もとらず、玄関でしきりに外の様子をうかがっていた。旧昭和学院の卒業生たちが大型バス一台を借り切って、慰問に訪れようというのだ。
 教え子たちは、予定の午前九時三十分を少し遅れて到着。乗降口から懐かしい面々が降りてくると朝川は一人ずつと握手を交わし、久闊を叙した。
 一行は恩師を連れ出して市内観光などを楽しんだ。朝川は感激の余り、昼食も喉を通らず、時間が経つのも忘れて話し込んだ。教え子たちが帰途に就くと、バスが見えなくなるまで見送っていたという。
 偶然にも、息子テルノリの三回忌と重なったこの日、晩年の生活の中では最も幸福な一日となった。
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 〇一年十二月××日。年末が近づいていたある夜、昭和学院OBの杉尾和美さん(三五)は夢で、悲しみ苦しんでいる朝川の姿をみた。
 虫の知らせと思って、従姉でクラスメイトだった賀集(旧姓西原)嘉津恵さん(三世、三六)に相談。付き合いのあった堀川まさるさんにも声を掛けた。
 杉尾さんと賀集さんは霊的なものを信じるタイプで、三人は、同級生を集めて恩師に会いに行こう、と決めた。
 手分けをして電話やインターネットで三十五人の連絡先を捜し当て、翌年五月二十六日にまず、サンパウロ市ピニェイロス区内のレストランで同窓会を開いた。二十五人が出席、十八年ぶりに旧交を温めた。出席者のうち十二人がサントス市に向かった。
 「朝川先生が臣道連盟に関わっていたことや、日学連で事務局長が自殺したことは、詳しくは知りませんが、先生は先生です」と賀集さん。
 「誰かが悪さをして責任を他人に擦り付けようとしたことがあった。本人が名乗り出るまで、先生はクラスの全員に椅子を持ち上げさせた。子供を持つ身になってようやく、あの時、先生が何を言いたかったのかが分かりかけてきた」。
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 「また、来るからね」、「うん、また、来いよ」と師弟は言い合って別れた。この約束は果たせなかった。朝川は翌十九日に体調を崩して入院。治療の甲斐なく三十日に、この世を去った。肺がんだった。「安らかな死顔をしていた」と親戚の三上治子さん(八〇、宮城県出身)はいう。
 前日、聖西日本語教育連合会の会議が開かれた。席上、国井精会長(当時)ら三人の発案で、慰問が決定、関係者には悔いが残ることになった。
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 生前、朝川は日本語教育の功労者として叙勲推薦者に名が上がったことがある。もちろん本人の希望は大きかった。が、臣道連盟の関係者だという理由で推薦を拒否された。朝川は終生、悔やみ、「私は勝ち組だから正当には評価されないのだ」と卑屈になっていた。
 厚生ホームで自分の過去をほかの入所者に話して聞かせることはなかった。斎藤ホーム長ですら、入所時に臣道連盟の指導者であったことは知らず、後に人づてに聞いて分かったという。本人と戦後の混乱期について会話を交わしたことはほとんどない。
 朝川はカフェが好きで、毎日必ず、ホーム長の詰め所に寄ってカフェを飲んだ。特に何かを話すというわけではなく、ただ黙ってシカラを口に運んだ。一度だけ、打ち明けて言った。
 「『狂信』(高木俊朗著)に私が登場するのですが、ご存知ですか。でも、あれに描かれている内容は現実とずいぶん、違うのですよ」。一部敬称略。
     (古杉征己記者)
 二十五日付中、鈴木威文協元理事は鈴木武文協元理事の間違い。訂正してお詫び致します。

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