桂植民地=入植開始から90年=〝廃墟群〟化した居住区=今も日系夫婦一組が生活=イグアッペ市が記念事業

12月3日(水)

 日本政府の主導でブラジルに開設された邦人移住地の第一号、桂植民地への入植開始から今年で九十年を数える。サンパウロ市から南へ二百キロ、州南岸に位置するイグアッペ市。その中心街より車と船で、さらに約一時間のジポーヴラ区に、一九一三年十一月九日、サンパウロ市などから約三十家族が移り住んだのが桂植民地の始まりだ。先月二十九日、イグアッペ市が主催して、市内各所で石碑の落成式、移住者資料の展示会といった記念事業が相次いで行なわれたが、リベイラ河畔に繁栄した元植民地には現在一組の二世夫婦が細々と暮らすのみとなっている。

 旧市街に軒を連ねるコロニアル様式の建物に並んでイグアッペの日本人会館はある。三万ほどいる市民にとってもおなじみの場所だ。石碑落成式後、同会館で開かれた昼食会にはジョアン・カブラル市長ら地元有力者も顔を見せた。
 植民地出身者の懇談会も兼ねていた。主催側は邦字紙に前もって来社し参加を呼びかけるなど広報に努めた。しかし当日、遠来の出身者はいなかった。
 往時を知る生存者の大半は二世だ。といっても高齢者が目立ち、「これが最後の集いかもしれない」。そんな声も伝え聞いた。
 「ぎりぎりまでいた」と話す西舘武保さん(七五)は、一九六五年前後まで植民地に住んでいた。その末期を知る数少ない一人。
 来伯後まずリベイロン・プレットに配耕されたが、「くだけた米粒ばかりのご飯に嫌気が差した父親」が米の最適地を熱望し三五年に入植した、という。
■華やかかりし戦前■
 十七世紀、ブラジルで初めてとなる金の鋳造所が作られたのがイグアッペ。夜会でみる女性はその髪に金粉を施していたとされる黄金時代を経て、近代は欧州に輸出するまでの米の一大産地に成長。「イタリアで一九一七年にあったコンクールで最良品に選ばれた」(地元農協のアウシデス・サントス代表)。これは今も市民の語り草だ
 最盛期で六十家族。佐賀県出身者が多かった日本人が植民地で手がけたのもまず稲作。そしてマンジョッカ製粉やサトウキビ蒸留などだった。産品はリベイラ川を走る蒸気船でサントス港まで、そこから鉄道でサンパウロ市へと運び入れた。
 ジポーヴラの空に蒸気の煙が常にたなびくようになると商業も同時に発展。港付近は郵便局、歯科医、レストラン、宿などでにぎわいをみせることになる。
■資産凍結と強制退去■
 イグアッペ日本人会の現会長、野村勝さん(二世、七〇)は、「街からも随分買い物に来ていたそう。外国製品もあったほどの品揃えだった」と往時をしのぶ。
 転機となったのは第二次大戦。ブラジル政府によって邦人資産は凍結されたばかりか、「海に近い土地に住むということで退去命令も受けた」と柳沢ジョアキン喜司さん(二世、八〇)。
 すぐに戻ることを許されたが、そのうち道路が整備され蒸気船の運行が停止されると、植民地を引き払い街へ出る人が相次いだ。
 市の観光案内所でガイドを入手した。かつての植民地跡を称して「ジポーヴラの廃墟群」―。その岸辺に降り立った。精米所だったレンガ作りの建物がみえてくる。耕運機、金庫も放置されたままだ。
■唯一の日系居住者夫婦■
 唯一の居住者、中村忠男さん(二世、七五)、キヨミさん(同、七四)の家はここから約一・五キロ離れている、という。
 ジポーヴラはグァラニー語で滑りやすい土地を意味する。船着場からの一本道は枯葉のじゅうたんに覆われていたが、所々に白砂が顔を出す。雨にたたられたら足をすぐとられそうだ。
 小野ジューリョさん(二世、七五)が道中、「あそこは牧草地で馬がいた。この小道を行くと大きな家があってね」と教えてくれたが、いまではすべてが木々と雑草のなかにある。
 中村さん宅ではコーヒーをごちそうになった。電気は引かれておらず薪で火をおこす。キヨミさんはもう二十五年間も街に出ていないそうだ。
 日本人大工が現地のコロニアル様式を模倣して建てた家屋からは、日伯様式の融合が見て取れる。庭にはジャブチカバウやショウガが植えられていた。
 「子供二人は日本へ出稼ぎにいっている」と中村さん。父親の伊作さんは第一回入植者でピンガを作っていた。一九三三年、入植二十周年を記念して製作された植民地のアルバムを一緒にみた。この家はすでにある。まだ赤ん坊の中村さんも写っている。
 帰路、かつて学校のあった土地に立ち寄ったが残るはレンガの土台のみ。その上で野性のランが真っ赤に咲いていた。
 「変わらないのは中村さんとあの家だけだ」。この日久しぶりに第二の故郷を訪れた出身者たちはうなずきあった。