ウルグアイ=自閉症児教育の曙光=連載(下)=JICA専門家=三枝たか子さん=〝逆風〟があった生活療法=いま定着、職業訓練を

12月18日(木)

 「こころと体の健やかな子どもを育てたい」
 北原さんが開園した武蔵野東幼稚園の理念である。
 現在、モンテビデオヒガシ学校の校舎の一室には、武蔵野東学園を創設した北原さんと夫で理事長だった勝平さんの胸像が、三枝さんを見守るように並ぶ。
 「強い信念の持ち主でした。自ら道を切り開く力を持っていた」。三枝さんは恩師をそう評価する。
 今でこそ高い評価を受ける「混合教育」だが、自閉症児を健常児と共に学ばせるのは挑戦でもあった。
 また、学園内だけでなく家庭生活においても子供それぞれに応じた指導を試みる「生活療法」は、北原さんが体系づけた。
 当初、日本の精神病理学会や自閉症研究家が認めようとしなかった生活療法だったが、七八年ごろから米国ハーバード大学教授らが、この療法に着目。八三年、八六年の全米自閉症児協会大会で生活療法の成果が、広くアピールされた。
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 米国を始め、世界各国からの自閉症児を集めたボストン東スクールは、マサチューセッツ州ボストン市に八七年九月に開校する。
 ここで副校長を務めたのが、三枝さんだった。
 米国内でも高い評価を受けた同スクールだが、三枝さんは当時をこう振り返る。「法令に対応する申請用紙を数千枚も書くことに追われた毎日でした」。
 大きな声で叱らない▽ナイフやフォークは駄目――障害児教育への規定が細かい米国で、生活療法を実施するには、「法の壁」を乗り越える必要があった。
 また学校だけでなく、寮生活も指導していたため、平均睡眠時間は約二時間というハードな生活が続いた。「私は実践派。法との闘いは本当に苦痛だった」と三枝さんは苦笑する。
 八九年一月に、敬愛する北原さんが急逝したのも三枝さんには痛手だった。
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 ウルグアイ自閉症児父兄協会の事務局長を務めていたストッツさんを、武蔵野東学園と結びつけたのは、一人の日本人だった。
 ウルグアイ国立工業試験所でストッツさんの上司を務める三上隆仁さんは、同試験所に派遣されていたJICA専門家を紹介。九二年に初めてストッツさんは、武蔵野東学園を訪れる。
 生活療法に感銘を受けたストッツさんは、保護者らとウルグアイ自閉症児教育研究グループを設置。生活療法の導入を目指す。
 また九三年、訪ウした谷洋一衆議を紹介されたストッツさんは、日本政府支援による生活療法の技術導入を陳情。翌年三月には、同学園から二人の教師がJICA専門家で派遣された。
 ウルグアイで行われる療法とは対極的な生活療法だけに批判や妨害もあったが、息子の将来を思うストッツさんは、義父宅を改造し、学校として提供。同年四月にモンデビデオヒガシ学校が開校した。
 北原さんの理念を受け継ぐ学校が、地球の反対側で誕生した。
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 九四年春、三枝さんは学園長からウルグアイ行きの話を持ちかけられる。
 「うるぐあい?」。全く未知の国に加え、ボストン時代の苦労が脳裏に蘇った。即答を避けた三枝さんを後押ししたのは、ある保護者からの一言だった。
 「こんな時、北原先生ならどうすると思う」
 同年八月末、三枝さんはウルグアイへ出発した。
 途中経由したサンパウロからの機内で、三枝さんは貴重な体験をする。水が飲みたくても英語が通じず、ようやくスペイン語会話の本を見せて気持ちを伝える有り様。「あの時、言葉に問題を抱える自閉症児の気持ちが本当に分かった」と三枝さん。この体験をもとに、札による意思表示という手法も生み出された。
 九六年には十カ月滞在するなど、十年間にわたり三枝さんは同校で生活療法のノウハウを伝授。その効果は目に見えて現れていた。
 マリアナさんは言う。「家族といても泣いてばかりのロドリゴが、笑顔を見せた瞬間は忘れられない」。
 三枝さんを主要紙エル・パイースは「自閉症児の希望」と紹介したが、親にとってもまさに希望だった。
 生活療法が定着した今、同校の課題は将来、社会的に自立するための職業訓練だ。自閉症児の特性を生かしたすでに青汁の製造や乾燥椎茸のパック詰め作業が軌道に乗っている。
 「十年前は子供の頭を撫でていたのに、今は逆」。
 早かった十年間を振り返る三枝さんだが、まだ歩みを止めるつもりはない。
(終わり、下薗昌記記者)