ブラジルの日系人、ポ語話す姿がいい=身近な〝行動派〟宗さん来伯=母国好きでない日系アメリカ人

1月17日(土)

 「日系人がポルトガル語を話す姿を好ましく思う」と語るのは、日系二世のアメリカ人宗信(むね・しん)さん(六六)だ。一九七六年から毎年、バックパッカーとして半年間、南米や日本をまわる行動派。今年も、メキシコからコロンビア、チリ、アルゼンチンを経由して南米に到着した。来社した宗さんに北米日系社会の現状や収容所の思い出を聞いた。
 宗さんは、三七年にカリフォルニア州サンフランシスコ市近郊で生まれた。長男で弟二人と妹一人を持つ。和歌山県出身の両親は、それぞれ二四年に渡米し、アメリカで出会い結婚した。二四年は「アメリカ新移民法(排日移民法)」が成立、両親は戦前最後の新移民となった。
 四一年十二月七日(現地時間)、日本海軍はハワイ・真珠湾を攻撃。太平洋戦争に突入した。四二年、当時五歳だった宗さんは、ルーズベルト大統領の行政命令で、ユタ州デルタ市の強制収容所に送還された。
 「スープやパンが中心で肉類は少なかったが、食べ物は充分あった。しかし、建物は風が吹けば倒れるようなバラック」と宗さん。「およそ二十平方メートルほどの建物に六人家族で住んだ」と住居の狭さが覗える。「父はモンタナ州で農作業の出稼ぎやニュージャージー州野菜倉庫の仕事をしていた」と記憶を思い返す。
 四五年六月に収容所をでた宗さんは、サンフランシスコ市近くのスタンフォード大学で有名なパル・アルトの町に。メキシコなどからの出稼ぎ労働者とともに農場で働いた。「この頃は、日本語を使うよりもスペイン語を使う方が多かった」と振りかえる。土地購入資金を蓄え、パル・アルトから程近いサンノゼ市でトマト、キュウリ、豆などの農作物を育てた。現在は、弟が経営する植木会社でトラック運転手として働く。
 「我々二世は、いかにアメリカ人になろうかと、常に考えていた」と宗さん。収容所を出てサクラメント市にいたとき「ベンチにいた両親の側に、アメリカ人が近づいてきた。アメリカ人は、両親の日本語を聞いたとたん突然踵を返して逃げていった。このとき、これから日本語を使えないと子どもながらに気づいた」と思い出す。「私の地域では、集まってカラオケや日本芸能をすることは殆ど無い。集まって、昔の苦労を思い返すのが嫌だからだと思う」と現状を分析。「私はアメリカがあまり好きではない」と漏らす姿が印象的だった。日系人、日本人との出会いを求めて、来年は日本へ旅立つ。