日本文化の伝承を考える(4)=神とデウス

1月28日(水)

GRACAS A DEUS/ MEU DEUS DO CEU!/SE DEUS QUISER/ DEUS TE ACOMPANHE/DEUS ME LIVRE/ DEUS NOS ACUDE/ DEUS TE ABENCOE/ DEUS LHE AJUDE/ DEUS LHE PAGUEなどと、ブラジルではデウスという言葉が日常の生活に密着して使われている。近年になって新教の信者が増えているもののカトリック教徒が大多数で、キリスト教のお国柄である。GRACAS A DEUSなどは「神様のお陰で」と日本語に訳されているが、「お天道様のお陰で」と訳す方が日本人の気持ちにピッタリ合っているのではないだろうか。
 ブラジルのようなキリスト教文化圏に来た日本人にとって、デウス(絶対神)の設定、個人とデウスの関係、契約の精神など、理解し難い最たるものだろう。漱石は『草枕』で「人の世を作ったのは神でも鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらほらする唯の人である」と書いている。江戸時代の人が、「ないものを在ると言って…」とデウスのことを批判したけれど、これは多くの日本人がもつ共通の思いだろう。先にデウス(絶対神)の設定と書いたが、キリスト教徒にとっては設定でない。このあたりの感覚は、理屈では解ったとして過ごすが、実のところ何も解っていない。
 私の娘が、黒澤明の作品を見たいと、ビデオを借りてきた。その内のひとつ「姿三四郎」を見ているとき、姿三四郎が喧嘩をして罰を受け池に入っている場面がある。そのあと、矢野正五郎が「人の道とは! それは、天地自然の理(ことわり)」と諭す場面に続く。日本人は自然を完成した秩序と考え、これと同調することを理想とするのだろう。
 日本の文化は、島国という立地条件で、異文化との接触を強要されることもなく、ごく自然発生的に形成されたものが、現在まで続いていると考えられる。日本の神というのは自然のなかのあちらこちらに存在するもので、デウスとは異なる概念である。
 キリスト教を知る人の話として、次のようなことが述べられていた。「キリスト教徒においては、個人が神との契約で、これをしない、あれをしないという原則がはっきりしている。かれらの人間の信頼関係というのは『相手は、これだけは絶対にしない』と言うところから始まる。汝、殺すなかれ、盗むなかれと同じで、相手は、私を殺さない、私から物を盗まない、私に対して偽証しないところから始まる。自分と神との契約があり、相手も同じように神との契約があることによってお互いの信頼関係が成立する。これが彼らのいう個人主義の理想型なのだ。」ブラジル人を長年見つづけているが、ほんとうにそうなのだろうかという疑問が残る。(中谷哲昇カザロン・ド・シャ協会代表)