日本文化の伝承を考える(8)=正直・誠実

2月4日(水)

 「うそも方便」という諺がある。うそをついても誠実な場合もあれば、正直であることが必ずしも誠実な訳でない。
 「大使とは、一国の政府が他国の政府に嘘をつくために派遣する正直な人間のことである」と言う。こうなると、何が正直で何が誠実なのか全く混乱する。
 よく日本人の持つ良い特質として、正直・誠実・勤勉と言われる。勤勉については次回で述べるとして、ここでは、正直・誠実について考えてみたい。
 ブラジルに住んでいて、何度も聞く話しなのだが、ブラジル人と交通事故を起こした時、相手に非があるにもかかわらず、決して謝らないという。日本人がこの話をするとき、ブラジル人は誠実に欠けると言う思いが込められている。また、これは下層階級相手に起り易い例であるが、借りた物を返さないとか、女中が家のものを盗んだというような話のときにも、ブラジル人は誠実に欠けると言う思いが込められている。
 日本航空の墜落事故と、ホテル・ニュージャパンの火災事故がほとんど同時期に起こったことがある。この事故の際、日本航空の社長は遺族の家庭を一軒一軒訪問し謝罪して回ったそうである。一方、ホテル・ニュージャパン社長はそんなこともせず、誠意がないと評判が良くなかった。
 カルチャーショックのところで例に挙げた、「貸して欲しい」と言われて物を貸してやれば何時までたっても返さないなどというのは、日本人にとっては嘘を言っていることになる。しかし、持てる者は持たざる者に与えるべきという規範のある社会では嘘とはならないのだろう。また、乞食に物をやればDEUS TE ABENCOEと返事が返ってくる。これは個人と神との関係を意味するのだろう。
 誠実が相手を裏切らないということで成立するのなら、社会での人間関係のあり方が異なれば、当然、誠実のあり方も異なってくる。
 キリスト教の社会が、個人と神との関係で成り立ち、謝るという行為が神に対してのみあり得るのなら、誠実というのもまた神に対してのみあり得るのだろう。日本では文化規範が人間関係そのものの中にあることによって、謝るという行為の対象が現実の相手ということになる。
 神との関係を示す対人関係の表現が、カトリックの信仰が厚かったひと昔まえの習慣が残って現在も使われているだけなのであれば、このような見方は再検討しなければならない。(中谷哲昇カザロン・ド・シャ協会代表)