日本文化の伝承を考える(17)=自然のとらえ方

3月 6日(土)

 日本の自然は水が豊富に有り、人を寄せ付けないという厳しい自然ではない。四季の変化があって人は自然の変化に順応する。台風、地震などの天災はあるものの一過性である。日本人の自然に対する考え方は、このような自然条件のなかで出来あがってきたものだ。自然との関係で日本人の性格を分析して、自然との調和・非分析的・直感的把握となにかに書いてあるのを読んだ。
 人の道とは、天地自然の理(ことわり)という考え方。これは人間の内心の秩序と、宇宙(自然)の秩序と社会の秩序とは、基本的には同一原理で成り立っているという発想である。そのやり方は不自然だと言う場合、人為、作為は良くない、計らいは良くないと言う意味が含まれる。自然を、人為を越えたもの、完全な秩序と考えている。
 日本文学の研究者ドナルド・キーンがある対談で語った一部をここで紹介したい。「江戸の文学作品を翻訳して感じますことは、はたしてこの作品に普遍性があるだろうか、ということですね。江戸時代の作品でいちばん普遍性のあるものは、芭蕉でしょう。芭蕉の『奥の細道』や俳句は、外国人が読んでみても、俳句はほとんど完全には翻訳できないにもかかわらず、外国人もだいたい感心します。」 
 「月日は百代の過客にして、 行きかう年もまた旅人なり」で始まる「奥の細道」に見られる芭蕉の自然観。「わび」「さび」を理解するには、日本人がもつ自然のとらえ方の理解なしでは有り得ない。
 良寛和尚の庵が竹やぶのそばにあって、ある年の春、竹の子が庵の床を突き上げた。良寛は床板を切りとってやった。竹の子がすくすく伸びて屋根に届くと、和尚は屋根にも穴をあけてやったと言う。このような話を日本人は好む。この話の内容が事実かどうかは問題ではなく、好んでこのような話が伝えられることに興味がある。
 個の存在を明確にする文化にあっては、自然は征服されるべきものと考えられている。自然を人間の力でねじ伏せようとする。そこから出る芸術にもスケールの大きなものがある。しかし、スケールが大きいといえどもそれはあくまで人間世界の出来事である。
 日本では、細部まで完成度の高い、繊細なものが特長となる。庭園などでは、そこがあたかも自然の延長であるがごとく見せる造園をする。
 動物学的に見れば人類の存続は、個体としてでなく種全体として見なければならない。現代文明は、個の存在を明確にする文化によって展開し、世界単一化が起ころうとしている。人工授精、生体の複製(クローン)、臓器移植、幼児死亡率の低下、長寿、どれをとってみても人類(ホモ・サピエンス)の活力を弱体化する方向に進んでいる。日本人の自然のとらえ方を、再検討するのも無駄でない。(中谷哲昇カザロン・ド・シャ協会代表)