マッチ棒一千万本!平和の塔=サンビスタ パンデイロさん(65)=「日本へのプレゼント」

4月13日(火)

 広島の原爆、鎌倉の大仏、後楽園野球場などの日本のイメージをちりばめ、マッチ棒一千万本(約四百五十キロ)を費やして平和の塔を建立したブラジル人がいる。ドン・パンデイロ(六五)といえば、一九六〇~七〇年代にテレビやラジオで大活躍した有名なサンビスタ。八〇年代には四回(半年ずつ)も訪日し、サンバ、MPBなどを広めた先駆け音楽家の一人だ。「日本人は真面目だから大好き」と公言してはばからない。二十一年がかりで完成させたマッチ棒の大作と、日本への想いを聞いてみた。
 「アナタ、カワリハ、ナイデ~スカ~」(「北の宿から」)などと演歌をアカペラで次々に歌いだし、止めるまで何曲でも歌いそうな勢いのドン・パンデイロ。マッチ棒の塔を作り始めたのは一九八一年のことだった。「世話になった日本へのプレゼントのつもりで始めたんだ」。八段に分かれており、組み立てると高さ七メートル半にもなる。
 最初に作ったのは、思い出深い後楽園球場の部分だった。「尊敬するファイティング原田の試合を初めてみたのがそこだった」と感慨深げ。
 サンビスタで有名だが、実は五五年から六九年まで、アマチュアのボクシング選手としてサンパウロFCやグアラニーに所属していた経歴も持つ。日本ボクシング界の金字塔を築いたファイティング原田の全盛期、その楽屋に押しかけて行って、一緒に撮った写真は今でも宝物だ。
 その後、七〇年に空手に切り替え、九五年には黒帯も取得する腕前に。親日派サンビスタの隠された一面だ。
 日本には七九年から八四年の間に四回、半年ずつ行って、毎晩東京や大阪のライブハウスで演奏した。八一年には日産サニーの広告にも登場。松坂慶子の後ろで楽器を叩いているそれは、大事な記念品の一つになっている。
 その八一年から、マッチ棒の塔を作り始めた。完成したのは〇二年のことで、二十一年がかりの労作だ。計一千万本以上のマッチ棒を使用し、「Mulher Mae」(母なる女性)と名付けられた。最初に作られた塔基部の一段が日本をモチーフにしており、鎌倉の大仏、浅草浅草寺、後楽園球場、大阪城、広島の原爆図などが散りばめられている。
 全てトロビカルな極彩色に塗られており、フランス、イタリア、米国など、自身が音楽の公演をして歩いた国を中心に各段が作られている。
 「途中で何回も崩れて、作り直したこともあるんだ。柱が細くて倒れちゃったりね。あと、マッチに火が火がついて燃えちゃったこともあったっけ」と製作時の苦労を語る。
 「また日本でショーをやりたいな」。空手とサンバで鍛えた肉体は、まだまだ衰えを知らないようだ。ドン・パンデイロ連絡先=電話011・288・4366、Eメール=donpandeiro@hotmail.com
 【略歴】本名=ジョゼ・ドン・アウヴェス。三九年にサンパウロ州地方部のサンジョゼ・ド・リオ・パルドに生まれ、四歳でパンデイロを叩き始めた。九歳で親に連れられて出聖し、五〇年年代後半から七〇年代にかけて、テレビ、ラジオ、劇場などを舞台にサンビスタとして大活躍。日本、カナダ、メキシコ、キューバなど十カ国以上で公演している。