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末広がり136人笠戸丸移民の子孫=故金城善助さん一族=5世26人、フェスタは賑やか

6月30日(水)

  一人の笠戸丸移民から九十六年後には百三十六人、これぞ末広がりの大家族だ。十八歳の時、第一回移民船笠戸丸で渡伯した金城善助さん(1890―1974)の子孫は、百三十六人にも増えている。中でも玄孫(やしゃご、五世)は二十六人もおり、最年長のチアーゴ・タダシ・タクシさんは十六歳。百周年の頃には、もしかしたら六世が誕生しているかもしれない。ブラジルに根を張る日系人の姿を、金城家を通してのぞいてみた。

 単身渡伯した金城さんは、大野基尚通訳に連れられ、全部が沖縄県系人の二十三家族、計百七十三人と共にファゼンダ・フロレスタへ配耕された。一九一六年、サントス在住の金城カミさんと結婚し、一男二女をもうけた。働いて四台の馬車を買い、競馬場に藁をとどけるなど、運送の仕事をしていた。二二年にカミさんが亡くなったが、善助さんは八十四歳でなくなるまで再婚はしなかった。
 三二年にバウルー市郊外の農場に移転した。一七年に誕生した長女オルガさん(八七、二世)は、父の思い出を次のように『ブラジル沖縄県人移民史―笠戸丸から九〇年』(同県人会)に記している。
 「これだけは伝えたいと思うことは、子どもたち(善助さんの孫)への愛情でした。列車で町に行くたび、いつもお菓子を買い、包んでくれるよう頼んでいました。帰りに孫たち線路の近くで、列車が通るのを待っているのを見つけると、手を振り、子どもたちにお菓子の包みを投げるのでした。もうお祭り騒ぎでした」
 オルガさんの次女、オデッテさん(六六、三世)は「私の兄弟は十二人いますが、おじいさんは必ずみんなにプレゼントをもってきました。特別な人でした」と思い出す。一緒に済んでいたわけではないので、それほど抱負な思い出があるわけではない。
 「おじいさんは、全く文句を言ったりしない人でした。頭が痛いとか、そんな話は一回も聞いたことありませんでした」とオデッテさんは振り返る。
 善助さんとカミさんの間には三人の子どもがおり、それぞれ結婚。孫は四十二人、ひ孫は六十人、玄孫は二十六人を数える。他界した数名を入れれば、善助さの血を引く人だけで百三十六人を数える大家族だ。善助さんの妻の家系をいれれば、その二倍になるとも言われる。
 サンパウロ市在住のオデッテさんの妹、ルシアさん(58、三世)は「まだ家族の多くはバウルーにいるので、毎週のように母のところで昼食をします。クリスマスのフェスタには、いつも百人以上が集まり、すごくにぎやかになります」と説明する。九三年から〇三年まで、夫フェルナンドさんと共に静岡県にデカセギにも行った。
 オデッテさんによれば、両親から、ここはブラジルだから日本語を勉強する必要ないと言われ、知らずに育った。「でも、私は娘に日本語をしゃべって欲しいので、そのためにいろいろ努力しています」という。
 善助さんは六〇年代に、「笠戸丸訪日団」の一員として初めて帰国を果たし、勲章を授与されている。七五年十二月にブラジルの土となった。

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