第2次世界大戦日系米兵2つの戦い(1)=民主主義のためと 人種偏見をはね返すために

7月13日(火)

  「人種偏見をはね返すには、戦場で勇敢に戦い、アメリカのために血を流すしかない、と彼らは信じた」―メールマガジン『国際派日本人養成講座』(六月六日号)は「日系米兵の二つの戦い」(文責、伊勢雅臣)を掲載した。第二次世界大戦で、なぜ日系人大隊が誕生したのか、日系人米兵の誇り、いかに戦ったか、その優秀ぶりを紹介している。四回にわたり転載する。

■1.フランスに現れた「日本兵」■
 一九四四年十月、ドイツとの国境近くにあるフランスの小さな町ブリエアに住むレイモン・コラン医師は、米軍の飛行機の音を聞きながら、「明日こそは」とドイツ軍からの解放の日をもう六週間も待っていた。
 そんなある日、コランが二階にいる時、「ボッシュ?」と階下から叫ぶ声が聞こえた。それはフランス人がドイツ兵を陰で憎しみを込めて呼ぶ言葉だった。待ち望んでいた米兵が、敵兵を捜す声に違いない。コランは喜びに浮き立って、一気に階段を駆け下りた。だが、そこで見た光景にコランは驚きのあまり凍りついた。なんと二人の「日本軍の兵隊」が銃を構えているではないか。
 日本はドイツの同盟国だ。待ちに待った米軍どころか、ブリエアは地球の反対側からやってきた日本兵の手に陥ちたのか。新たなる恐怖の占領か。ああ神よ!
 すると、「日本兵」の一人がニッと白い歯を見せ、自分の胸を親指で指して「ハワイアン」と言った。それでもコランが何だか分からずにいると、笑顔で握手を求め、コランの肩を抱いた。「日本兵」たちはドイツ軍を追って、すぐに去っていった。翌日からは白い顔のアメリカ兵がやってきた。

■2.「私生児大隊」■
 この「日本兵」とは第百大隊に所属するハワイ出身の日系米兵だった。真珠湾攻撃の約一年前から選抜
徴兵制が始まったが、ハワイでは人口の四割が日系人である。徴集された兵も約半数が日系青年だった。
 彼らが入営する時は、義理のある米国に恩を返すときだと、親たちは盛大に祝った。徴集兵が出発する駅では、「祝 入営○○君」と日本語で書かれたのぼりが何本も風にひらめいて、その先に星条旗がなかったら、日本国内の光景と見間違えたろう。
 しかし日本軍による真珠湾攻撃の後では、日系米兵だけが本土に送られた。もし日本軍がハワイに上陸し、米軍の軍服を着込んで侵入されたら、日系兵と見分けがつかない、という心配からだった。ハワイから送られた日系米兵千四百三十二名は「第百大隊」とされた。通常は師団―連隊―大隊という構成になるはずが、第百大隊には親となる連隊がなかった。引き取り手となる連隊がない「私生児大隊」に、日系兵たちは不安と不満を隠しきれなかった。
 日系兵たちは英語と日本語とハワイ語の入り混じったひどい英語を話したので無教養に見えたが、実は大半が高卒で、大学入学者も一二%いた。彼らが家族に書き送る英語の手紙は文法に適ったもので、検閲係の白人将校を驚かせた。大隊の知能指数は平均一〇三で、一一〇以上なら士官学校行きである。白人なら将校になるはずの兵が多数いたのである。しかし第百大隊の将校はほとんど白人で固められていた。
 第百大隊は、北部のウィスコンシン州、続いて南部のミシシッピー州で訓練についた。銃機関銃を据える時間は陸軍の平均が十六秒だが、彼らは五秒という驚異的な数字を出した。平均身長百六十センチと子どものような体格なのに、フル装備のまま一時間五・三キロのペースで八時間ぶっ続けに歩いた。普通なら一時間に四キロがせいぜいである。
 過酷な演習の合間に、彼らは日系人として米国のために戦う意義を語り合った。「俺たちは二つの戦いを戦っている。アメリカに代表される民主主義のためと、そのアメリカに於いての俺たちへの偏見差別とだ」。人種偏見をはね返して、対等なアメリカ市民としての立場を得るためには、戦場で勇敢に戦い、アメリカのために血を流すしかない、というのが、彼らの思いであった。(つづく)