グァタパラ移住地入植42周年=「すでに安定」と総括=慰霊祭、記念式典と収穫祭=移民発祥の地、歴史の保存に動く=100年祭に向け活力

7月14日(水)

  十一日、サンパウロ州グァタパラ移住地で先没者慰霊祭、入植四十二周年記念式典、および収穫祭が盛大に行われた。同移住地には一九〇八年、笠戸丸でブラジルに到着した第一回移民七百八十一名のうちの二十三家族八十八名(鹿児島県、高知県、新潟県出身者)と単独移民四名が、一〇年六月には旅順丸による第二回移民九百六名の中の二百二十六名が、一二年四月には厳島丸による第三回移民千四百三十二名のうちの四十五家族が、それぞれ入植した記録がある。
 旧グァタパラ移住地に残された遺骨を現移住者たちが七七年に一カ所に集めて拓魂碑を建立し霊魂を祀っている。今年は二十七回目の慰霊祭となった。入植記念式典と収穫祭が行われた文協会館の入口には「グァタパラは日本人移民発祥地」と日ポ両語で大きく書かれた横断幕が掲げられた。
 地元グァタパラ市のルイス・カルロス・ステラ市長、石田仁宏・在サンパウロ日本総領事、石橋隆介JICA(国際協力機構)サンパウロ支所長代行、吉岡黎明ブラジル日本文化協会副会長、馬場光男JATAK(全国拓植農業協同組合連合会)サンパウロ事務所長、牧晃一郎・南米産業開発青年隊協会会長、黒澤伸明サンパウロ日本人学校校長、また、移住地にあるJATAK農業技術普及交流センター所長ら多数の来賓が出席、移住地在住者に慶賀を表した。
 あいさつに立ったグァタパラ農事文化体育協会の川上淳会長(茨城県出身)は「一九六二年に開殖以来、水利問題などの基本営農計画が不適切であり、交換分合による再出発をせざるを得ませんでしたが、苦難を乗り越えた現在では、養鶏を基幹産業とする安定した移住地として地域社会に高い評価を受けております」と実績を総括し、移住地の中で「日本移民百周年準備委員会」をたちあげ、移民発祥地を保存するための行動を開始していることを表明した。
 そして「われわれは、移住の歴史を学び、先駆者の偉業を後世に伝える百周年記念事業とすることに誇りを感じます。農業技術普及交流センターともども、過去の教訓を生かし、明るい未来を約束できる移住地建設に邁進します」と力強い宣言を行った。
 会場に隣接する日本人学校の教室には、文協役員が日時をかけて克明に調査したグァタパラと近隣移住地の地図、資料、写真などが掲示され、出席者の注目を喚起した。移住の歴史を再検証するこうした企画は、移民発祥地の誇りに根差すものとして高く評価されてしかるべきであろう。
 また、日系児童生徒による習字や作文や工作、婦人部員の手芸品、自信の農作物、鶏卵、それらの加工品、などが会場の内外に展示された。
 さらには、隣国パラグァイのイグアスー移住地から種子を導入して栽培した高タンパク質・非遺伝子組み替え大豆「オーロラ」で作った味噌や豆腐が好評であった。
 苦難を乗り越え、今を生きるグァタパラ移住地の老若男女の姿に移住百周年に向けた活力を感じる一日となった。