20世紀初め 『マデイラ・マモレ』奥アマゾンとボリビアをつないだ=日本人も従事敷設工事で1万人余死ぬ 〃悪魔の鉄道〃兵どもの夢の跡=60年代初頭、廃線に=作物の集積地へ復興の期待

7月29日(木)

  枕木一本に一人の命──。奥アマゾンで収穫されたゴムをポルトベーリョ(RO)まで積み出すため、同市とボリビアとの国境の町グヮジャラミリンはかつて鉄道で結ばれていた。「マデイラ・マモレ鉄道」、全長三百六十六キロ。俗に「悪魔の鉄道」と呼ばれる。マラリア、黄熱病が猛威を振るい、敷設工事で一万人以上の工夫が命を落としたことから、この名が付いた。難工事には、ペルー下りの日本人移民の姿もあった。開通は一九一二年八月一日。日本人初の移住者「グヮポレ移民」が到着する四十年以上も昔のことだ。当時ゴム景気は既に過ぎ、二年で赤字経営に転落。六〇年代の初めに廃線になった。兵どもの夢の跡を訪ねた。(古杉征己記者)
 ポルトベーリョの桟橋付近に、巨大な倉庫群が威容を誇っている。築百年は経っているかと思われる歴史的な建造物だ。今は鉄道博物館に姿を変え、内部には機関車の部品、機関士の写真、新聞の切り抜きなどが展示されている。ここが、マデイラ・マモレ鉄道の始発駅でもあった。
 市内で雑貨屋を営む栗山平四郎さん(67、東京都出身)は「以前はゴムや木材の運搬のほか、客車としても使われ、港は結構賑わっていました。廃線後、観光用に走らせたことがあったけど、ここんとこはさっぱりです」ともらす。
 州政府は鉄道を観光の目玉に仕立てようと計画しているものの、なかなか予算が集まらないのが現状のようだ。いくつかの機関車が昔のままの姿で、倉庫近くに停車。往年の面影を残している。
 ポルトベーリョから上流にはサンカルロス、テオトニオといった滝があるほか、浅瀬や急流が現れ、船の航行が難しい。
 そのため、鉄道敷設計画が持ち上がり、イギリス系企業がまず一八七二年に工事に挑んだ。だが、マラリアや黄熱病などで多くの死者と病人を出して撤退に追い込まれてしまう。
 続いて、アメリカ系企業が経験豊かな技術者と世界各国から集めた労働者を投入。工事を再開するものの、結果は同じ。この段階で死者・行方不明者は二千人に上った。
 以後、三十年間工事は中止されていた。アクレを併合する代償として、ブラジルが鉄道の建設をボリビアに約束。工事が一九〇七年に再び、スタートする。
 ブラジルの会社が請け負ったが資金不足で、アメリカ系のマデイラ・マモレ鉄道が引き継ぎ完了させた。死者・行方不明者約一万人。労働者五万人の二〇%に当たる数字だった。
 ゴム景気に沸く奥アマゾンを目指し、日本移民がペルーからアンデスを超えて、ボリビア、ブラジルに逃れてきた。
 宮崎県庁の職員だった故中武幹雄さんがペルー下りの話を聞きつけて、九〇年代半ばに工事に携わった日本人の有無を調査。ポルトガル語の書籍『悪魔の鉄道』に、日本人四人の記念写真が掲載されていることを発見した。
 同氏は『奥アマゾンの日系人』(鉱脈社)を執筆後、がんで死去。調査はそこで、打ち止めになってしまった。四人の氏名、出身地などは今だ謎につつまれている。
 ポルトベーリョは最近、大豆の積み出し港として脚光を浴び始めた。パラナグア(PR)やサントス(SP)が混雑。コンテナに、なかなか積み込めないためだ。
 個人のつくった港を行政が借り受ける形で港湾を整備。マットグロッソ州などから次々にトラックが押し寄せてくるようになった。
 「この町の取り柄は、あまり無いんです」と、栗山さんは自嘲する。作物の集積基地として名誉を挽回、町を活気付かせることに市民の期待が膨らんでいる。