あす終戦記念日 戦没者供養を目的に=サンパウロ靖国講50年前創立=「修身教育がないとダメ」=根っからの勝組、松本さん

8月14日(土)

  「堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ以て万世の為に太平を開かむと欲す」。一九四五年八月十五日。終戦の詔勅(玉音放送)が流され、一億の日本国民が泣いた。その時、ブラジルでも約二十四万人の移民が唇をかみ締めた。戦中、敵性国民と扱われ、かたずをのんで戦況を見守った。そして、祖国を憂えた。日系コロニアは終戦を境に、史上最大の混乱を来す。戦没者を供養しようと、サンパウロ靖国講平和友の会(松原寿一講元)が立ち上げられた。今からちょうど、五十年前のことだ。
 サンパウロ市リベルダーデ区。ガルボン・ブエノ街とファグンデス街を結ぶT路角にガレリアがあり、名刺印刷、ロッテリア、美容室などが軒を並べている。その一つの時計店をのぞくと、日本刀と竹刀が目に入った。
 店主の松本善方さん(福岡県出身、87)は一九三二年に、家族八人で移住し、北パラナに入植した。その後、満州事変、日清戦争そして太平洋戦争が勃発。一家を代表して、戦地に赴こうと領事館に志願した。
 しかし、領事から翻意を促され志は果たせなかった。「父も長兄も日本兵として戦った。今度は、僕の番だと思いました」
 ラジオなどで日本の戦況が悪化していることは、分かった。「日の丸の旗を腰に捲いて、いつでも自決する覚悟を固めていました」。敗戦になれば、移民が虐待を受ける危険性があったからだ。
 国のために命を捧げ、敵艦隊にぶち当たっていった特攻隊員たち。地球の反対側からは、ただ静観することしか出来なかった。「せめて、戦没者の冥福を祈りたい」。石川安太郎氏の言葉が、サンパウロ靖国講の始まりだ。
 松原講元の父ウノスケ氏や渋谷信吾氏(台湾・日本語教育長官)ら有志十人が結集。邦人宅を訪問して、募金を集めた。
 「戦勝派」と「認識派」の対立は戦後熾烈化。テロによる暗殺事件も起こった。混乱は五四年には、沈静化し、靖国講の活動も落ち着いて展開することが出来た。
 松本さんは根っからの勝ち組。「もちろん今でも、そうですよ」と胸を張る。ロンドリーナで貴金属の店を持っていた。約三十年ほど前に、サンパウロに出てきた。靖国講の趣旨に賛同し、会に入った。
 毎年十月の春季慰霊大祭・奉納演芸大会。かつては、文協の記念講堂に千人以上を集めて盛大に行った。戦争体験者の減少や一世の高齢化などで、今は百五十人といったところだ。
 国旗掲揚や国歌の斉唱を拒む教育現場が存在することに、松本さんは首をかしげる。「私たちは修身教育を受けました。戦後の教育が、子供たちをダメにしているのではないでしょうか」
 創立五十周年の記念慰霊祭は十月三日午前十時から、文協貴賓室で開かれる。靖国神社から湯澤宮司と樋口知明宣徳課課長が祝福に駆けつける予定だ。神主の上妻博彦さん(鹿児島県出身、70)は「松原親子の努力で、五十年間よく続けられてきたと頭が下がります」と、思いを込めて祝詞を奏上する。