日本館50周年=時が流れても変らないもの=どう日本文化を残すか=「百年先を見通していた先人を想うと、胸が一杯に」

8月18日(水)

  ずいぶんと白髪も増えました――。十四日、ブラジル日本文化協会(上原幸啓会長)主催の日本館五十周年式典が行われ、日本館設計者の堀口捨己、大江宏両氏の助手として当時建設に関わった建築士の高瀬隼彦さん(南カリフォルニア日系商工会議所元会頭)は月日の流れに感慨を込めて挨拶をした。
 「五十年振りに来ましたが、全然変っていません。しかし、当時の記念写真を見てみると生きているのは私だけです。建設に携わった者の一人として心からお礼が言いたい」。
 勇壮な太鼓の演奏で式典は開幕し、約二百人の関係者が出席する中、アドリアーノ・ジオーゴ=サンパウロ市長代理や、上原文協会長、石田仁宏サンパウロ総領事などが挨拶した。
 純子夫人とカリフォルニアから来伯した高瀬さんは、北米の邦字紙「羅付新報」の発行に携わり、この日もはかま姿で現れるなど日本文化への思いが強い。
 「日本文化が外国に存在し、このように発展して行くのは素晴らしい。カリフォルニアでも、どのように日本文化を残していくかが大きな課題です」。
 鏡割りの後、乾杯の音頭をとった田村ワルテル日本館元運営委員長は、「両国民の相互理解を深めるという役割は五十年たっても変わらない」と語る。
 また、「ここは日系人の精神的なより所。その役割をますます深めて行かなければならない」と川合昭現運営委員長はいう。
 戦後、日独伊の枢軸国側文化が尊重されない風潮の中、ルーカス・ノゲイラ・ガルセスサンパウロ州知事(当時)と、ギレルメ・デ・アルメイダサンパウロ市四百周年祭典委員会総裁は、あえて日本館の建設を支持した。
 上原会長は「ブラジルはもはや多民族国家ではなく、多文化国家。百年先のことを見通していた彼らのことを想うと胸が一杯になる」と大学時代の恩師でもある彼らに思いを寄せた。
 最近、同館周辺を東洋文化エリアにする提案がサンパウロ市側から出されていることに対し、「今、ブラジルには中国人も多い。力を合わせ、日本だけでなくアジアの文化をみんなに伝えて行きたい」と、文協の伝田英二副会長は計画に賛成の意を表した。
 その他、琴や尺八、書道、茶道、いけ花の実演も行われ、参加者の目を引いた。
 無料一般公開だった十五日には、今年一月二十五日の六千人を越える七千人が集まり、かつてないほどに日本文化への関心が高まっていることが示された。
 「日本館を作ったことで日系社会は団結しました」と、文協創立会員の原沢和夫さんが挨拶したように、日本館建設が文協の設立、移民五十周年祭の成功へとつながった。それからちょうど五十年―。
 来年の文協五十周年や〇八年の移民百周年へと、どのように、つなげていくのか。注目と期待が集まっている。