人生の幕引の前に=日本政府に向け真情を吐露した米国在住老人=(2)=「二重国籍を認めよ」=ほかの先進国並みに

8月31日(火)

 「私はこの日本行きの直ぐ前に、吉田氏のアメリカ帰化試験のお手伝いをしましたが、彼はアメリカ国籍でないと社会保障のべネフェクトを受ける事が制限されるので心配して、帰化試験に通訳を付けて、アメリカ国籍を取られたが、日本も二重国籍を認めてくれるのであれば、彼の様に九十歳を迎えて、帰化試験の苦しみを味あわせなくとも良いのだがと、思うのですがネ。彼が話していたのは、二重国籍が認めていれば、五十年前にアメリカ国籍を取っていたそうです――」と、少し考え込む様に話した。
 そして、「吉田氏らは、戦後日本が敗戦で混乱と困窮の時代に、日本に救援物資を送り、学校にオルガンを送り、医薬品を送り、戦時中は砂漠の凍るような、夏には四十五度にもなる気温の中、砂漠の砂嵐の下で、壁はタール・ペーパーを打ちつけただけのバラックで生活した、強制収容所の過酷な経験者たちです。
 生前、アルゼンチンに居た兄が、手紙で書いて来た事を思うと悲しくなります。それは、一方で日本語も話さない、日本人の心も持たない、日本人の血を持っていると言うだけで、三世ながら、アルゼンチンから日本のパスポートで、出稼ぎに行き、日本で働いている人達がいると言う事です!
 もう、日本の労働力を補うとしてだけの、日本国籍法ではないと思うのですが、日本人として真の大和魂を持ち、現在の日本人以上に日本を愛し、また憂えて、日本の国旗に敬愛の念を込めて、胸に手を当て、日本国歌を歌う人達を、外国に帰化したと言うだけで、日本政府は一瞥も呉れずに、日本国籍を放棄する様に卑下して、国籍放棄の署名を強制する。その様な仕打ちを、止めさせる様にしないと。そして、ほんの僅かしか生き残っていない人達の為にも、日本政府は、国籍法の改正に取り組むべきですョ」。
 彼は其処まで言うと、手にしていた飲み物を置き、涙をぬぐった。
 彼の心の中に差別と偏見と迫害に耐え、この歳までの長い幾歳月のわだかまりの感情が言葉になり、吹き出した様な感じを受けた。素敵な笑顔の、スチュワーデスが枕を金田氏に整えて、イスの姿勢を変えたので、金田氏はゆったりとした姿勢に寛いで、又話し始めた。
 「自国の国民に、二重国籍を認めている国は、世界で約六十カ国もあります、イギリス、フランス、スイス、イタリア、ギリシャ、そしてイラン、イスラエルでも認めています。中南米では、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、コロンビアなど、沢山有ります。アメリカに住むメキシコ人は推定で、二千万は二重国籍の恩恵を受けている様ですョ。カナダでは、二パーセントが、二重国籍とされています。日本は先進国と言われていますが、なかなか他の先進諸国に追い付くのは無理な様です―――」。
 私は頭の中が暫らく整理出来なく、考えてしまった。この後、直ぐに出て来た素晴らしい、食べきれないほどの食事に満足して、出されたワインに少し酔いを感じた様であつた。
 金田氏は、ワインの酔いに少し顔をほんのりと染めて、また話し始めた。
 「私の廻りの、多くの友達や、家族が戦争中には、日本に居たブラジル、アメリカの二世達が、皇軍兵士として出征して、戦死しています――私の弟もその一人です。今回最後となる日本訪問に、靖国神社を訪ねるのもその為です。弟は、両親と乳飲み子の時帰国して、父が日本滞在中、健康を損ねてアメリカに戻る事が出来なくなり、日米の戦争も始まり、弟は海軍航空隊から、終戦の年に神風特攻隊員として、沖縄の海へ散りました」。
 金田氏は、其処まで言うと、食後のコーヒーをゆっくりと飲み干して、涙を隠す様に窓の方を見た。其処には青く染まった空の色と、白い雲の流れが、入り混じり見事な模様を浮かび上げていたので、暫らくは無言で眺めていた。
 金田氏は自分の最後となるで在ろう、此の度の日本旅行に私を誘ったのは、長い付き合いの中で、一度も話した事のない自分の人生の物語を聞いてもらい、心の中の声を残しておきたいと思ったのではと、感じた。(つづく)