造形作家廣田健一さん=「繰り返す」世界貫き

8月31日(火)

 造形作家の廣田健一さんが十五日、骨ガンのため、七十二歳で死去した。故人の遺言で、初七日は行われず、二十六日夜、交友のあったアーティストら約五十人がサンパウロ市内のレストランに集まり、しのぶ会が開かれた。
 「繰り返す」ことにこだわった作家だった。折れクギのような形象を不規則に連鎖させ、画面を埋め尽くすことで世界を表現した。ゆとりがあればピタンゲイラの海辺のホテルに泊まり、たゆとう波ばかりデッサン、「続けてみることで何か生まれてくる。抽象作品も具体的な行為の積み重ね」といつか語っていた。
 新潟県分水町生まれ。幼少から絵描きとして大成する夢を見、二十歳のとき、現代絵画の巨匠、猪熊源一郎の門を叩き、新制作美術協会展で入選するなど頭角を現す。画業に精進する傍ら、中学で美術を受け持ったり、大手映画会社の舞台美術を担当。海外遊学を志したときにはすでに不惑の年を迎えていた。
 メキシコのルフィーノ・タマヨの作品に衝撃を覚えたことがきっかけとなり、イタリアに行く予定を変更。羽田空港に取材に来た地元紙記者に「どうしてメキシコへ?」と質され、「とっさにヘミングウェーのことが頭に浮かんでね、釣りに行くと言ったんだ」
 一九七一年から二年半を数えた滞在期間中は絵より写真に夢中になり、汚れた壁や道路に照準を絞って二千枚以上も撮りためた。ただ、後年作品のモチーフとなる記号の着想はこの時代に得ている。ヒントはアステカのピラミッドにあった。試行錯誤の末、正三角形を折れクギの姿になるように二十七個並べ、その輪郭を辿ってみたら、自分にとって落ち着く格好をしていたという。
 七三年、ブラジルには、生涯愛し続けることになるカーニバルを見に来た。当初本気で永住するつもりはなかった。だが、翌年サンパウロであった現代日本版画展に「ブラジル側」から出品したり、七七年のビエンナーレに参加するうち足場が固まった。その後はブラジル美術界に確たる存在感を築いた戦後移民アーティストの一翼を担いつつ、生徒への指導にも情熱を注いだ。絵を描くことは心に栄養を与えること―。文協の児童絵画教室でともに講師を務めた金子謙一さんは「毎年授業の初日になると同じ言葉を伝えていた」としのぶ。
 名刺にはいつも手書きで名前を記入。きっちりストイックなまでに構成された幾何学的な作品とは対照的に、ブレて震えているような字体でサインした。「彼は自分の内側から出てくるものは結局幾何学なんだ、と言っていた。その字もじっと見ると確かに全体で構図が取れていた」と親交の深かった豊田豊さんはいい、「頑固なまでに自分の世界を貫き、骨があった人。われわれ作家の模範ともいえる態度を示してくれた」と別れを惜しんだ。