人生の幕引の前に=日本政府に向け真情を吐露した米国在住老人=(5)=自身の髪を弟の遺髪の壺へ=僧侶に永代供養を依頼

9月3日(金)

 鈴木氏は、別れの時に、電文用紙とオルゴールを金田氏に渡すと、金田氏の手を握り締め、「私の心の荷が少し軽くなりました。生き残った私が出来る事は、このくらいです。これからの日本の旅を楽しんで下さい――」彼はそう話すと、手を振りながら別れて行った。
 二人で、鈴木氏と別れてから、暫らく皇居の方に歩いた。晴れあがった天気に、皇居の木々が青々として、風にゆれていた。
 歩き疲れてタクシーを拾うと、ホテルまで帰って来た。金田氏は、部屋に戻ると背広を脱ぐなり、「疲れました」と言い、窓際のイスに腰を下ろした。
 二人で、遅いランチを食べて、部屋に戻ると、金田氏は昼寝をするからと、横になったので、私はその間に、明日のハトバス都内観光の予約を取りに行った。
 翌朝、金田氏の希望で、都内観光バスの始発場まで送ると、私は今回の訪日の用件、同窓会の会場へ向かった。
 赤坂のホテルの会場では、大学時代の同期が久しぶりに顔を揃え、賑やかなもので、時間の経つのも忘れて、話に夢中になり、会場が閉まり、その後の二次会まで流れて、まだ話しが続いた。
 その夜、ホテルに帰りドアを開けると、金田氏は窓際のイスに座り、綺麗な都内の夜景を眺めていた。私が「遅くなりました」と、声を掛けると、「綺麗ですね!」と、窓際から離れずに答えた。
 「この日本の繁栄の影に隠れてしまい、忘れられた中で、戦後の苦しい混乱期に、アメリカ日系人の援助と、幾多の救援活動をした人々がいる事を、今の日本の方は、誰も覚えてはいない様ですね――悲しい事です。これだけ見事に繁栄の日本が蘇ったのに――」。金田氏は、じっと立ち尽くしていた。
 次の朝、私達二人は新幹線で、金田氏の故郷に向かった。新幹線で一時間、宇都宮駅まで行き、その後、タクシーで益子の町を過ぎ、茂木の町まで一時間走り、予約していた日本式旅館に着いた。
 金田氏の話では、誰も親類は残っていないとの事で、法事と言っても、金田氏と、私の二人だけで、お墓の有るお寺で取り行うとの事であった。
 旅館に荷物を下ろして、庭の池の鯉を見ながらお茶を飲んでいると、女将が、挨拶にやって来たので、お寺の場所を聞くと、直ぐ其処の、五分もしない所です、と教えてくれた。
 近くで、祭ばやしの音がしていたので、「お祭りですかー」と聞くと、「子供の、祭囃子の練習ですよ」と教えてくれた。二人で、笛や太鼓の音を聞きながら、近くのお寺まで歩いて訪ねていった。
 古びたお寺の玄関口で、声を掛けると、住職が、「お待ち致していました」と、直ぐに座敷に案内してくれて、明日の法要の説明をしてくれた。
 金田氏は持参した兄の遺骨を前に、アメリカからのお土産と、法要のお香典をさしだして、「明日は宜しく御願いたします」と頭をさげた。そのあと、お寺の共同納骨堂に安置してある両親と弟の前で、花と線香を上げ、長い間立ち尽くして、動かなかった。
 翌朝、開け放された、本堂の中で、しめやかに金田家の法要が営なまれた。住職のお経の声と、鳥の鳴き声、廻りの竹林の風でそよぐ音が交互して、時の経つのも忘れていた。
 法要が終り、お茶の接待を受け、その席で、金田氏は、「私はもう歳ですので、再び法要に訪れる事はありません、永代供養料として、お納めいたしますので、末永く御願致します」と話して、少し分厚い封筒を差し出して頭を下げた。
 そしてもう一つ、封筒を差し出して「これは私と、亡くなりました妻の頭髪です。妻の遺骨は、アメリカに有ります。私が死んだら、二人揃って、太平洋に、散骨するつもりですので、これを弟の遺髪が入って居る壷に収めて下さい。弟の遺骨は有りません。どこか沖縄の近くの、太平洋に眠って居る事でしょう。私は、弟の近くに妻と行きます。妻が生きている時に話をして、決めた事です」と話し終えると、涙を隠す様に窓の方を向いた。
 住職は何も言わずに、ただ「かしこまりました」と、ひとこと口にした。
 その夜、温泉に入り、久々の大浴場での温泉気分を満喫して、あゆの塩焼きで、冷たいビールを飲んだ。
 すべての予定を終えて、金田氏は安心したのか、気分良く杯を重ね、床についた。その夜は、私も翌朝まで、何も知らずに寝入っていた。(つづく)