赤道直下の日本人会=マカパーに新会館建設へ=市役所が用地を寄贈=会員300人「活性化」期待

9月25日(土)

 【マカパー発】赤道直下としてはブラジル唯一の日本人会が新会館建設へ――。アマゾン川河口北岸にある、アマパー州都マカパー市のアマパー日伯協会は、新会館を建てることを検討してきたが、十六日、市役所から土地の寄贈を受けたことから、一気に移転に弾みがついた。現会館周辺の治安が悪化してきたこともあり、同市の日系人らは新しい土地を求めていた。鈴木敬三会長(71、北海道出身)は「これで、会の活性化は間違いないと思います」と期待している。
 土地の仮調印式は十六日晩で、偶然にも、県連ふるさと巡り一行が同地を訪れ、現地日本人会との懇親会を行ったその日だった。寄贈されたのは、インフラエロⅡ区の百二十平米。ジョアン・エンリッケ・ロドリゲス・ピメンタウ市長の決断により、同日付で市都市化公社が調印した。
 九十数人の県連一行に対し、マカパー日伯協会会員らは百人以上参加し、テーブルを挟んでお互いの経験を、時間を忘れて熱心に語り合った。同協会には約百家族、三百人おり、その三分の一以上が会場に現れた。
 マカパー市は赤道直下にあることで有名。太陽が真上に来る秋分の日や春分の日には、足元の影がなくなるという珍現象が起きる。南米でも赤道直下にある日本人会は、エクアドル首都にあるキト日本人会と、マカパーだけではと見られている。
 アマパー州への移住には、苦闘の歴史が刻まれている。入植こそしたものの土地が不毛で脱耕者が相次ぎ、辛酸を舐めるなか消えた移住地もあった。
 一九五三年九月、二十九家族から始まる。うち二十四家族はマタピー植民地にゴム栽培として、五家族がマカパー郊外のファゼンジーニャに野菜栽培として入った。
 翌五四年九月に第二次移住の二十一家族のうち、マタピーに十六家族、ファゼンジーニャに五家族が入植した。三年後の五七年、最後の第三次入植では、マザゴン植民地に七家族が入植。合計五十七家族だった。
 鈴木会長の話では、日本とブラジル政府がゴム栽培地として選定したマタピーは、実際に入植してみると潅水が不可能な地域で、土壌は農業に不向きな砂地、加えて濃度の高い酸性土壌だった。マカパーから北に百三十キロで、入植当時は当然未舗装路だった。
 「みんな、最初の三年は無我夢中で、訳もわからず懸命に働きました。でも、全ての点でゴム栽培には不向きだと分かり、脱耕者が出始めました。ゴムばかりでなく、全ての農作物の栽培が難しく、生活にも困る有り様でした」と当時を振り返る。
 現在マタピーには、第一次入植の四家族の日系人のみが残っており、第二次耕地には一人もいない。「ほとんどの人は南伯(サンパウロ州を含む意味で)や他州を目指し、少数の人だけがマカパー近郊で野菜栽培をしました」という。といっても州内農業経営する日系人は、全員で九家族のみだ。
 同協会会員で日本国籍者は二十九人のみ。家長の大半は亡くなり、現在は幼少時に渡伯した準二世だ。会員の大半では二~三世で、ここ数年来は南伯から弁護士や医者、会社員などの二世らが毎月のように増えているそう。
 現会館は十年以上前から宗教団体に貸してあり、そのお金を会運営に充てているが、「集まる場所がなくなって困っています」という。「今の場所は危ないので、みんなあつまりたがらない」ので、新しい土地を市に申請していた。
 家長クラスが元気な時代には協会の活動も盛んだったが、「現在は新年会ぐらいです」と残念そう。それを打開すべく、鈴木会長は市役所に訴え続けてきた。「もらった土地に、会館を建てたい。新会館ができれば、会の活性化は間違いありません」との明るい展望を語った。